苦しいのが、劇中で殺人を正当化する上官にも、「そうなる」だけの理由があることだ。「かつて子どもを含む民間人(を装った者たち)に爆殺されかけた」と語られているのは、恐らくは事実ではあるのだろう。その戦場のリアルを知っているが故に、彼は証拠もなく民間人を殺害することを正当化するようになってしまったのではないか。
©2019 Nostromo Pictures SL/ The Kill Team AIE / Nublar Productions LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
この上官は、主人公に対してこう脅したりもする。「正しいと思うことを貫く姿勢は尊重する。問題は、『正しい』の意味を知らないことだ。そのことで善人が迷惑してる。俺もその1人だ。それは許せない」と。おぞましいことに、殺人を正当化する上官は、自らを「善」と信じており、主人公が内部告発をしようとする正しさを否定、つまり悪だと告げているのだ。
SF作家である故・伊藤計劃の小説および2015年のアニメ映画『ハーモニー』では、善を「ある価値観を持続させるための意思」と定義するシーンがある。本作『キル・チーム』で提示される善もそのようなものだろう。証拠もなく民間人を殺害をすることを良しとする価値観がまかり通り、それがチーム内で持続するだけの意思があるのなら、それは善なのだ、と。
「悪が栄えた試しなし」という言葉がある通り、悪とはいつかは消滅するものだ。だが、自らを善と信じ、その善の価値観に周りも同調しているのであれば、それは持続可能になってしまうのかもしれない。本作はそのような、善の恐ろしさを描く寓話としても読み取れるだろう。
劇中では「良心の空砲」という挿話が語られている。その内容は「処刑に使う銃の中に1丁だけでも空砲を仕込むと、怖気付いていた者でも『殺すのは俺じゃない、俺“たち”が殺すんだ』と思うようになり、殺人への抵抗がなくなる」というものだ。
劇中で、「チーム」が証拠もなく民間人の殺害を続けてしまっているのも、それが「個人」の責任によるものではないと思っているからなのだろう。これは戦争は言うまでもなく、あらゆる争い事に通じているものではないか。「周りや仲間が良いと思ってやっているんだから、自分がやっても大丈夫だろう」などと集団心理に近いものが働き、それが許されざる加害性を帯びているということは、現代の日本でも十分にあり得るものだ。
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この映画を観れば、責任の所在について今一度考えるきっかけになる。組織や社会の責任とするべきケースももちろんあるだろうが、やはり個人の言動にも注意や警告が必要なのだと、身を引き締められるはずだ。