酒井 いっぽうで、
のび太はいつもひとの顔色を伺っている。だから、それなりに思いやりもあるじゃない、時折。
で、これは官僚制をどう捉えるか、ということとも結びついている。官僚制というのは省略の方法、無知で運営する方法です。だから、官僚制は無知のひとをキープしておかなくてはならない。
官僚制は人間が無知であることを必要とし、同時に人間を無知にとどめておき、さらに人間に無知だと思い込ませる。
だから、官僚制のなかにいるとひとは自分のことを愚かに感じる。こんな書類もろくに書けない、こんな手続きもなんどもやり直させられる、こんな規則も理解できないなどなど、自分は愚かであるにちがいない、と。グレーバーはそれを「
構造的愚かさ」といってる。
矢部 なるほど。
酒井 グレーバーは自分の理論がフェミニズムに負っているといつも強調していて、それは
ケア労働の問題ともつながってくるんだけど、「解釈労働」の問題も重要。いつ翻訳が公刊されるのかはちょっとわからないけど、『
On Kings(諸王論)』というグレーバーが自分の師匠である
マーシャル・サーリンズという著名な人類学者と一緒に書いている、『負債論』も超える超分厚い本があって、この本は決定的な主権論にして国家論でもあるんだけども、とにかくわれわれはいまだ(政治哲学者の)カール・シュミットだなんだと近代西洋のフレームで考えているけれど、それとは全然違う視野の広さから主権の政治を語っている。
もうひとつ、グレーバーが
デビッド・ウェングロウというエジプト考古学者と書いた最後の本があって、グレーバーはこの本を仕上げた直後に亡くなっているんだけど、これには「
Farewell to the ‘childhood of man(人類の幼年期の終わり)」というパイロット的な論文がある。
これもほんとうにおもしろい論文なんだけど、そこで語られているのは、考古学は人類史をたどればたどるほど王らしきものの存在の発端をさかのぼらせていく、さらに、基本的に王権というのは、必ずしも国家と結びついているわけじゃなくて、王があるから国家があるわけじゃないという。
矢部 なんか、ドゥルーズ=ガタリっぽい話になって。
酒井 そうそう、これはまさしく「原国家」論だよね。で、マダガスカルの話に戻ると、昔、マダガスカルには王様がいたけれども、
民衆はこの王様を子供扱いする、王様は暴君であると。で、子供をあやすように民衆が王様を扱うんだって。王様のふるまいが目に余るようだと、民衆は親だから文句をいえるわけ。
矢部 いい加減にせよ、とたしなめることができる、と。
酒井 で、こういうときには官僚制は生まれない。なぜかというと王が子供で、民衆は大人だから。いっぽうで
官僚制というのは民衆を子供にする装置で、その子供らしさ、ここで子供らしさというときには幼稚さを意味しているけれども、それをキープする装置である。だから王権があっても官僚制とか行政装置がないところというのはたくさんあるわけ。これは国家とは必ずしもいえない。
で、
ジェームズ・フレイザーの『
金枝篇』に出てくる有名な話で、アフリカのある王国における「王殺し」の逸話がある。これは、
王様が少しでも衰えてくると民衆に殺されてしまうという話。これも王はいるけど国家とはいえない。
矢部 主権はどうなんでしょう。
酒井 主権があるということは、その最も素朴な形態は、おとがめなしに好きなように暴力的にふるまえるということ。
矢部 主権はあるけど、官僚組織がない。それに衰えたら殺されてしまう、というのはずいぶんと弱い立場だね。
酒井 で、民衆をおさえつけるために官僚制を作って、王は民衆を臣民化しようとするんだけど、それ以前、あるいはそれと並行しながら、王と民衆の争いがある。これが主権の根本にあるんだというわけ。いっぽう、シュミットとかわれわれは、主権を外と内で考える。
矢部 水平的というか、他国と自国で。
酒井 そう、で、
例外状態での「決断」があるけど、例外状態とはなにかというと、外と内の戦争なわけ。これがシュミットからわれわれに至るまでの主権についての基本的な考え方。ところが、グレーバーはそれは違う、という。
民衆と王の戦いが主権のルーツにあるという。
矢部 垂直的なものに起源を求める。シュミットは水平的でグレーバーは垂直的、と。
酒井 そうそう。これはまだ主権が国家を受肉していないところ。で、国家と結びつく。民衆は王を子供にしようとする。横暴な王、王で主権だから、王は神もしくは神となんらかの関係がある存在で、モラルも法も超越できる、という考え方が主権のなかにはある。だから王というのは、そもそも「暴君」である。いっぽうで民衆は王をあの手この手で押さえ込んで行こうという構図。それは一番極端な例でいえば王殺しにもなることもあるし、あるいは祭り上げてタブーでがんじがらめにすることもある。「王は触ってはならぬ、見てはならぬ」と。理由は神聖すぎるから。これは職場なんかでも似たようなことがあるはず。横暴な上司なんかを、あえてえらくして動けなくしてしまう。
矢部 責任があるから動きづらく、口出しがしづらくなる。
酒井 そういう力学が働いてくるんだよね。これは、民衆が、国家はすでに成立はしているけれどもその力を最小限に抑えるような。たとえば、日本の戦後なんかでも、象徴天皇制なんていうのは、ある意味で占領軍の力を借りて王権を抑え込んだともいえる。
矢部 そうなのかな。
酒井 日本というのは近代になってから、「天皇の赤子」というかたちで典型的な王権の勝利というものを内在させた社会であって、日本の官僚制の強さはそこにある。「天皇の赤子」って天皇の子供のこと。要するに
臣民を「子供化」している。で、この間、「天皇はわかってくれる、考えてくれる」っていう話が「左派」のほうからすらも出てきている。
矢部 「天皇は慮ってくれる」と。
酒井 「慮ってくれる」って
解釈労働なわけ。天皇の側はなにもいわないのに、天皇は安倍(前首相)に抗議しているとか、ほとんど妄想の域に近いけど、万が一そうであったとしても、そういう
「慮り方」がそもそもヒエラルキーを強固なものにしているし、
期待する時点で王権的構造と官僚制が一体化して作動する日本の権力関係を強化している。それと官僚制は非常に相性がいい。だからわれわれは大人になれない。
戦後には、少しは日本の民衆も大人になろうとはしたし、実際、ある程度はなっていた。でも、今はすべての領域が「幼稚」としかいいようがない体を示しているでしょう。こう考えてみると、天皇制とまったく関係ないことはないとおもう。
矢部 『ブルシット・ジョブ』では、大人になれない、
幼形成熟というのを資本主義の問題として語っているんだけども。6章のあたりで、資本主義の時代になると中世にあった奉公人制度がなくなり、年期奉公が死ぬまで続くような状態が生まれ、近代の労働者は大人になれなくなったと説明している。
酒井 賃労働者というのは大人になれない。
矢部 これは自分のハーバー・ビジネス・オンラインでの連載の宣伝になるけども、「
史的ルッキズム研究」というのは、資本主義が持つ性格から幼児化を説明している。そういったアプローチ。
酒井 なるほど。そういう要素もあるけど、こと日本で考えると、特異な要素は天皇制だとおもう。いつも赤子、子供として民衆を支配する。
矢部 権力の支配、官僚組織というものと資本主義的な労働者というのが接合している。
酒井 そう。それはもともと接合している。だけどおそらく、日本の場合には「
臣民は無知でいい」というものがある。
コロナとか原発なんかもそうだけど、情報を与えて判断させる、というのができない。