「政局報道」から脱し、論点を軸にした国会報道に注目を<短期集中連載「政治と報道」最終回>

衆院本会議場

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KONkitune / PIXTA(ピクスタ)

 11月から始めた「政治と報道」をめぐる短期集中連載も、今回で第11回となる。  この連載の一貫した問題意識は、政府与党と報道機関・記者との距離感と、その距離感が報道にどう反映されるか、にあった。「権力者の本音に迫るためには密着取材が必要だが、しかしそれによって取り込まれることはない」と報道各社は主張するが、果たしてそうなのかを、事例に即しながら検討してきた。  第7回第8回で取り上げた政治報道の報じ方の問題には、特に反響があった。国会で野党が何を批判し、何を求めたのか。その議論の内実に踏み込まないまま、「野党は反発」「攻勢を強める」「決め手を欠いた」など、政治的な駆け引きだけが展開されているかのように報じられる記事への疑問を述べ、論点を軸にした国会報道を求めたものだ。  最終回となる今回は、この問題についてツイッターで寄せられた情報にも触れながら、今後の国会報道への期待を述べて連載を閉じたい。

30年前から問題は変わらず?

 第8回の記事の公開後、「国会会議録パトロール」さん(@kokkaipatrol)から、前千葉県知事の堂本暁子氏が同様の指摘をされていたことを御指摘いただいた。下記の記事だ。 ●「平成ネット政治史 /5 パソ通掲示板「永田町日記」 政策議論を市民に発信=逢坂巌」毎日新聞2018年9月20日  堂本氏は1989年に参議院議員となり、社会党会派に所属されていた。1994年12月にパソコン通信「ニフティサーブ」の掲示板で「永田町日記」の発信を始めており、ネット政治の先駆者の一人とされる方だという。記事にはこうある。 “堂本氏はTBS報道局の出身だ。80年代初め「ベビーホテル」と言われた認可外保育施設の劣悪な状況を伝えるキャンペーンをして児童福祉法改正を実現。81年度の新聞協会賞を受賞した。ライバルである新聞や雑誌も熱心に取り上げ、世論を盛り上げた成果だった。ところが89年に参院議員になると、取り組む政策や課題、立法のプロセスをなかなか報じてもらえなくなった。 (中略) 日本の政治報道では、政治家個人や政党内や政党間の政策議論が取り上げられることは少ない。「選挙の応援になってしまうから避けてしまう。だけど、それでは殻の部分ばかりが書かれ、後世に真実が伝わらないのでは」と今もその在り方を危惧する。穴を埋める手段がネットだったという。“  取り組む政策や課題、立法のプロセスがなかなか報じられない。政治家個人や政党内や政党間の政策議論が取り上げられることが少ない。「殻の部分ばかり」が書かれる。――筆者がこの連載で取り上げてきた問題意識と重なり合う。  「国会会議録パトロール」さんからは、「30年前にはすでに、政治部の取材姿勢、政局報道のスタンダードから欠落している大事な要素が堂本さんからも明確に指摘されていて、にもかかわらずあまり顧みられた形跡がないことも気になる」との指摘がおこなわれた。  また、筆者と「国会会議録パトロール」さんが共に気になっているのが、日本の政治報道で政治家個人や政党内や政党間の政策議論が取り上げられることは少ないのは、「選挙の応援になってしまうから避けてしまう」からだ、という見方だ。実際に、そこに原因があるのだろうか。

なぜ野党の主張や指摘は報じられないのか

 確かに選挙前の報道であれば、各党の主張を、字数も含めバランスよく報じることが求められてきた。しかし、選挙前でなくても、ある政党の主張やある議員の質疑に光を当てることは、「選挙の応援になってしまうから避けられてしまう」のだろうか。  もしそうであるなら、それは本末転倒と言えよう。国政選挙では市民が国会議員を選ぶが、その国会議員は、「国権の最高機関」(憲法第41条)たる国会において活動することが、本来の任務だ。国会議員がその国会でどのような活動をおこなっているかを、市民が知る機会が限られているならば、どの政党や候補者に票を投じることが適切であるかを判断する材料が、極めて限定されてしまう。  野党は「反発」したり「審議拒否」したりするだけの存在であるように報じられてしまったら、野党に票を投じることの意義を認識することもできない。そして、消費税減税のような目をひく政策を掲げるか否か、知名度の高い人物を候補者に担ぎ上げることができるか否か、といったことが投票行動を左右することになってしまう。それでは健全な民主主義社会とは言えないだろう。  そうではなく、日頃からそれぞれの議員や政党がどういう質疑を展開しているのか、どのような政策を重視し、どのような社会の実現を目指しているのかに目を向ければ、この人にこそ、この政党にこそ、政治を託したいという判断が、より適切にできるはずなのだ。  日本は議院内閣制であり、法案は与党内で事前に審査されてから国会に提出されることになっているため、国会の質疑時間は野党に手厚く配分されており、論点が対立する場面も野党の質疑において起こる。そのため、国会質疑に注目して報じるならば、与党より野党を利することになってしまう、と思う方もいるかもしれない。  しかし、だからこそ政党や議員に、ではなく、そこで論じられている論点に注目して報じていただきたいのだ。そうすれば、野党の指摘と政府の答弁のどちらに理があるかが明らかになる。政策判断が分かれるような問題であれば、どちらの主張を自分は推したいのか、という判断にもつながる。野党の指摘が単なる難癖やパフォーマンスであれば、それは取り上げなくてよい。巧みな比喩や皮肉ばかりでなく、大事な指摘が取り上げられれば、見落とされがちな問題に丁寧に目を向けた議論や、緻密な論理展開などに、より適切に光を当てることもできる。国会の議論をより正常化させることにも、つながるはずだ。  法案が成立に至るかどうか、疑惑が解明に至るかどうか、といった「結果」だけに注目した報道になると、「野党は反対ばかり」とか「野党はモリカケばかり」とか「いつまで桜、やってんだ」などという見方が力を得てしまう。  「モリカケ桜」や日本学術会議の問題を野党が繰り返し取り上げざるを得ないのは、政府が適切に資料を出したり、不適切なおこないがあったことを率直に認めて対処したりしないからなのだが、議論の中身が注目されないと、「いつまで……」という見方を後押しすることになってしまうのだ。  本来、問われなければならないのは政府の対応なのに、追及をやめない野党の方が問題であるかのように見えてしまうのだ。  また、質疑の中身に注目しないと、問題のある法案や政策が数の力で押し通されてしまう。この法案はこういう欠陥がある、この政策ではこういう問題が見落とされている、そうした問題点を野党が国会で指摘しているのに、それが報じられなければ、市民が気づくことなく法案が成立し、政策が推し進められてしまう。そうして問題が表面化してから報じられても、遅いのだ。取り返しがつかない犠牲を防ぐことが、できなくなる。
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論点に沿った深い報道が事態を動かす
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『日本を壊した安倍政権』

2020年8月、突如幕を下ろした安倍政権。
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