それがなぜ、後に平然と「若者には貧しくなる“自由”がある」と言うようになったのか。評伝『
竹中平蔵 市場と権力』(講談社文庫)の著者で、ジャーナリストの佐々木実氏はこう指摘する。
「一橋大学卒業後、竹中氏は日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)に入り、4年後には銀行の設備投資研究所に配属となりました。池田勇人内閣で所得倍増計画を主導し、竹中氏の憧れだった下村治、日本人でノーベル経済学賞にもっとも近づいた宇沢弘文らのもとで研究しています。
それが31歳のとき、一つの転機を迎える。大蔵省(現・財務省)に出向し、異能の官僚である
長富祐一郎氏に出会ったことです。バブルに沸く日本で、霞が関で絶大な権力をもつ大蔵省は監督する金融界と癒着を深めた。長富氏の懐に飛び込んだ竹中氏は金融界を統括する官僚のごとく活躍できた。この体験が彼の中で抑圧されていたものを解放したのではないでしょうか」
当初、2年の期間であった大蔵省への出向は何度も延長となり、異例の5年間に及んだ。’87年、大蔵省を去ると、竹中氏は銀行に戻らず、大阪大学経済学部の助教授に就任。ハーバード大学の客員准教授を経て、’90年からは慶應義塾大学総合政策学部で教鞭をとる。
そして、’98年には、小渕恵三政権の諮問会議のメンバーに竹中氏は選ばれた。
「ちょうど大蔵省の権威が不良債権処理の失敗やノーパンしゃぶしゃぶ事件で地に落ちていたころ。バブル処理に失敗した官僚はダメだから、経済学者の知恵を借りようと呼ばれました。でも、経済学者といっても竹中氏は“元大蔵官僚”。政策提言だけでなく、官僚を動かすノウハウを知っているから、政治家から重宝される。その後、森・小泉・安倍・菅政権で首相ブレーンを務めますが、根本の考えは『
税金というのは結局ヤクザのみかじめ料みたいなもの』(『経済ってそういうことだったのか会議』)と発言した20年前と変わっていません。
最近、提唱している『ベーシックインカム』も新自由主義者・フリードマンの『負の所得税』の焼き直し。米国では格差拡大や環境破壊を引き起こした『株主資本主義』の反省から、従業員や顧客、環境などに配慮する『
ステークホルダー資本主義』という、新しい資本主義を経営者たちも支持するようになっている。コロナ危機で大きな転換点を迎えた今、いまだ政治力があるとはいえ、もはや竹中氏は時代に取り残された存在です」