「反発」という言葉は、政治の場面以外でも、
権力者の意に背く言動を指す場合に使われやすい。例えば下記のように。
●「米グーグルで、人工知能(AI)の倫理部門の責任者だった著名な黒人女性研究者が「解雇された」と訴え、
経営陣への反発が社内外に広がっている」(
【黒人研究者「解雇」、グーグルに抗議文 「AI偏り」論文】朝日新聞2020年12月7日朝刊)
●「問題なのは調査受け入れを決めるまでの過程だ。寿都町の片岡春雄町長は当初から「最終的には私の肌感覚」で決めると一貫していた。住民説明会でも「肌感覚」を繰り返し、応募を前提としたような説明に
反発は強まった。」(
【記者の目:核ごみ処分、調査受諾の2町村 民意反映されたか疑問=高橋由衣(北海道報道部)】毎日新聞2020年12月3日朝刊)
しかし、同じような文脈でも、「反発」という言葉を使わず、「抵抗」という言葉を使っている記事もある。
●「「新しい歴史教科書をつくる会」の流れをくむ育鵬社の教科書を採択する学校が、激減している。2011年の初採択以来、保守系首長の後押しでシェアを伸ばしてきたが、
現場の教師や市民団体の抵抗を受け、21年度から別の教科書に変える自治体が相次いだためだ。」(
【安倍氏が支援した育鵬社教科書の採択が激減した理由 菅首相は…】毎日新聞2020年9月22日電子版)
國枝すみれ記者によるこの記事では、「
現場の教師や市民団体の抵抗を受け」と、「反発」ではなく「抵抗」という言葉が用いられている。
「反発」と表現されると、感情的で一時的なリアクションのような印象を受けるが、「抵抗」と表現されると、強い意志で粘り強く抗う、という印象を受ける。
実際、記事ではそのような粘り強い取り組みが紹介されている。だからこそ「反発」ではなく「抵抗」という表現を記者は選んだと見ることもできる。しかし、他の記事で「反発」という言葉を用いた記者たちも、「反発」という言葉を使わずに表現すれば、なぜ「反対」しているのか、何を「批判」しているのか、どのような「反論」や「抵抗」をおこなっているのか、といった点にいっそう目を向けることができたのではないか。
國枝すみれ記者は毎日新聞統合デジタル取材センターの記者で、下記のような深掘り記事を執筆されている方だ。
●
NHKは何を間違ったのか~米黒人差別の本質:NHK動画に厳しく抗議 偏った黒人像を作った「400年制度化された差別」 (毎日新聞 2020年6月24日)
この記事は、アメリカの抗議デモを紹介したNHKの「これでわかった!世界のいま」という国際ニュース番組の公式ツイッターが流したアニメ動画がなぜ問題であったかを、400年にわたる「制度化された差別」に目を向ける中で明らかにしていく記事だ。「
激怒する筋骨隆々の男性を登場させ、『粗野で、怒りのコントロールができない』という黒人に対する否定的な固定観念(ステレオタイプ)とくっつけてしまった」との識者の見解を紹介した。
黒人の歴史を専門とする坂下史子・立命館大学教授に話を聞いてまとめた記事だが、誰に何を聞き、どうまとめるかという点に記者の視点や力量が現れる。
この記事に見られるような國枝記者の視点の確かさが、上記の教科書問題に関する記事における「抵抗」という言葉選びにも表れているように、私には思われるのだ。
筆者は『
呪いの言葉の解きかた』(晶文社、2019年)の中で、アルバイト先のトラブルに関し、「
文句を言うと、職場の雰囲気を壊す」と語る学生の言葉に注目した。この「文句」という言葉には、「文句を言うヤツ」という経営者の否定的な目線があらかじめ織り込まれている。「文句を言う」ではなく
「抗議する」「異議申し立てをおこなう」と言い換えてみれば、こちらに理があり、正当に権利を主張しているだけだと思うことができる。言葉ひとつで、そのくらい認識は変わるのだ。
「反発」という言葉もやはり、「文句」と同じように、
「面倒なリアクションを起こす者たち」という目線が織り込まれた言葉のように感じる。「反論」「批判」といった表現に変えると、そのようなリアクションを起こす側にも理由があることが感じられる言葉になる。そう考えるとやはり、
「野党は反発」という言葉遣いは問い直されるべきだと思うのだ。