「編集済み」の答弁では政府の不誠実さは伝わらない。限られた紙面で書きにくいものをどう報じるか?
短期集中連載第5回。今回は前回に続き、政治をめぐって、報じるに値するものとは何か、という問題を別の角度から考えたい。今回のテーマは、報じる材料を与えない政権に、いかにメディアは対抗できるか、だ。
政治に問題があるとき、問題発言や明らかな問題行為は報じやすい。例えば公文書の改竄などは、多くの人が「それはダメだろう」とわかる問題であるため、記事の見出しだけで端的に問題は伝わってくる。
「桜を見る会」も、国会答弁のおかしさが常識に照らして判断しやすかったからこそ、テレビでも報じやすく、私たちにも身近に感じやすい話題であったと言える。ホテルでの前夜祭は参加者が各自で受付時に5000円を支払い、領収書を受け取る形で行われ、事務所としての収支は発生していないため、政治資金収支報告書への記載の必要はないのだと安倍首相は繰り返し国会で答弁してきたが、格式のあるホテルでさすがにそういうことはあり得ないだろうと私たちは判断することができた。
しかし多くの問題はより複雑で、端的に問題点を指摘することは難しい。そしてさらに報じることを難しくするのが、安倍政権も菅政権も、国会答弁や記者会見において、言質を与えない、報じる材料を与えない、という姿勢を強めているという問題だ。
例えば、どのように聞かれても、あらかじめ用意した同じ答弁書を棒読みする。日本学術会議に推薦された6名の学者の任命拒否問題で、「総合的、俯瞰的な活動」という観点から99名を任命した、と語り、6名の任命拒否理由については語らない、というのはその一例だ。任命拒否について問われると、当初、政府側は「個別の人事についてはお答えできない」と答弁していたが、そのうち「人事に関することはお答えを差し控える」と、さらに答弁拒否の対象を拡大させた。
さらに「ご指摘は当たらない」「まったく問題ない」「法令に基づき、適正に対応をおこなっている」などという根拠のない断定も行われている。それがいかに根拠のないものであっても、首相や官房長官や大臣がそう語っていると、問題があることを伝えにくくなる。「野党が……と指摘したのに対し、政府は問題ないとの認識を示した」といった報じ方をすると、まるで野党が根拠のない難癖をつけたかのように読まれてしまう可能性もある。
意図的な論点ずらしの答弁もそうだ。論点を絞った上でイエスかノーかで答えよと野党議員が求めても、のらりくらりとはぐらかした答弁が続く。そうした場合、その答弁を素材に問題を報じることは難しい。
実際に国会審議を見ると、あるいは、記者会見を見ると、こうした答弁を繰り返すことは、明らかに不誠実な対応であることがわかる。決して、良い印象を与えるものではない。さらに、国会で対立している論点についての野党の質疑を見ていると、おおむねまっとうで大事な指摘がなされていることが多い。その指摘に政府側が誠実に答えないことは問題があり、国会という審議の場を答弁側が損なっていることがよく見えてくる。
そういう不誠実な対応を繰り返していることは、本来、政府与党にとっても望ましくないことのはずだ。みずからに対する信頼を棄損することになるのだから。なのになぜ、平然とそういう対応を繰り返すのか。
おそらく、「一定数の国民にその不誠実さが露呈していても、他の国民がそれに気づかずにいるなら、支持率の低下につながることもなく、問題ない」という判断が、政府与党にはあるのだろう。実際、世論調査を見ると、その時々の個別の問題について、「説明が不十分だ」と答える割合は高いが、政権支持率はその問題と連動して大きく落ち込むわけではない。そういう現状を踏まえての対応と思われる。
実際には野党の指摘に答えておらず不誠実なのだが、堂々とした態度で答弁しておけば、その部分だけが編集された映像で流される。「首相は……と答えた」と報じてくれる。そうであるならば、いかに質疑と答弁がかみ合っていなくても、堂々とした態度を見せておくことが得策なのだ。
そういう状況であることに、報道機関はどれほど問題意識があるだろうか。「首相はこう語った」という報じ方が世論のミスリードに加担することにつながることに、どれほど危機意識を持っているだろうか。そして、政府与党がそのような不誠実さの中に開き直っているときに、その問題をどう報じたら市民に伝えることができるか、知恵を絞っているだろうか。
政治と報道をめぐる
報じる材料を与えないという戦略
不誠実でも問題ないという判断
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