いわき東高校のモデルは、1971年夏の甲子園決勝で惜敗した磐城高校
福島県いわき市の磐城高校。『ドカベン』に登場するいわき東高校のモデルといわれる
そして初期の『ドカベン』でもっとも印象深かったのは、山田太郎が高校1年時に全国高校野球選手権の決勝で戦った「いわき東高校」です。超高校級のフォークボールを投げる緒方勉を擁し、明訓高校を苦しめます。彼は病気で倒れた出稼ぎの父親の代わりに福島県いわきから出向き、働きながら神奈川県大会予選を観戦するキャラクター「出かせぎくん」として登場します。
地元の炭鉱の閉山が決まり、卒業後はチームメイトと離れ離れになる定めを背負い、彼はいわきに戻って県大会を完全試合で制し、甲子園出場を決めます。甲子園では決勝までの全4試合を完封、決勝の明訓戦でも8回まで得点を許さず44イニング連続無失点を記録。しかし、9回表に岩鬼に逆転2ランとなるスコアボード越えの場外ホームランを浴びてしまいます。
このいわき東高校のモデルは磐城高校だといわれています。進学校としても知られるこの県立高校は、1971年夏の全国高校野球選手権でやはり「小さな大投手」といわれた165㎝の田村隆寿を擁して決勝まで勝ち上がり、神奈川の桐蔭学園高校に0対1で惜敗します。
田村は全試合を1人で投げ抜き、初戦から連続完封。決勝戦の桐蔭学園高校との試合で0-0から7回裏に34イニング目での初失点を喫しました。1失点だけの準優勝投手は、未だに長い歴史を誇る全国高校野球選手権の歴史のなかでも彼しかいません。
三池炭鉱(福岡県)宮原抗跡。かつては炭鉱町の野球熱が、高校野球にも大きな影響を与えていた
ちょうど、いわき地域の炭鉱の核になっていた常磐炭鉱が閉山を決めたのが、くしくも同じ年の1971年でした。準優勝に終わったチームのパレードを、地元の人たちは大きな歓声で迎えたといいます。すべての炭鉱が集結するのが1984年でしたが、中核になっていた常磐炭鉱の閉山は、街全体に将来への不安を掻き立てていました。
振り返るに、炭鉱全盛期には炭鉱企業が福利厚生としてスポーツに力を入れたことから、産炭地は野球熱を帯びていきました。炭鉱企業の社会人野球チームがいくつもでき、都市対抗野球でも存在感を放っていました。そして、そこからプロ野球の世界に羽ばたいていった選手も数多くいました。
1965年夏の大会で優勝した三池工業(福岡県)もその流れの一つでした。当時の高校野球は、その炭鉱の熱気に支えられていたとみることができます。
「炭鉱企業と地域の高校野球との紐帯は太かった」というと、現在からは想像することが難しいかもしれません。炭都において炭鉱企業は地域でいちばんの企業であり、社員の子息たちも近隣の学校に通うことになり、野球が好きであれば地元高校に進学して野球部に入るというのが一般的でした。現代とは違って、そこには明確に生活共同体としてのコミュニティがあったに違いありません。いわきの炭鉱も同様でした。
磐城高校はかつての男子校から今は共学校になりました。2020年の選抜高校野球大会に21世紀枠で出場予定でしたが、新型コロナの影響で同大会が中止になってしまいました。代替大会として8月に開催された高校野球交流試合では、国士館高校と対戦して3対4で惜敗しました。
高校野球があって『ドカベン』があり、『ドカベン』があって高校野球があった、それが昭和から平成の時代だったのです。
<文・写真/増淵敏之>