映画『シカゴ7裁判』があぶり出す警察の「神話的暴力」。対抗する術はあるのか

神話的暴力装置としての警察

 ヴァルター・ベンヤミンは、『暴力批判論』において、暴力を、規範をつくる力としての法措定的暴力と、規範に従わせる力としての法維持暴力に区別した、この区分は構成する権力と構成された権力の区別という法哲学の伝統に連なるものではあるが、ベンヤミンはこの両者を、神話的暴力として、人間に対する抑圧だと考えた。  ベンヤミンによれば、この法措定暴力と法維持暴力を最悪のかたちで融合させたのが警察なのだ。警察は、自分たちは法を守っているだけだと言いながら、その都度、その場で、自分たちの都合で、勝手にルールを定めている。  たとえば10月17日に行われた中曽根元総理合同葬でも、警察は公道を封鎖し、抗議する市民をつけねらい、移動を妨害し続けたことが報告されている。同月、大阪府警は、同じ場所で、特定の政党にのみ街頭演説を禁じた。こうした妨害や嫌がらせのひとつひとつは、法律に根拠を探すことはできず、警察(官)自身が、現場で措置としての法をつくっているとみなすことができる。  「警察制度は、文明国家における、どこにも掴みどころがない、隈なく行きわたっている、亡霊めいた現象であって、これと同じく、警察制度の暴力も無定形である。(……)民主制においては、警察の存在は(……)暴力というものの考えうる限り最も退廃した形態の証しとなっているのであって、警察の精神は、絶対君主制においてよりも、民主性においてのほうが、よりいっそう有害なものなのである」(※1)  このような、構造的暴力の結果としての暴動という認識があるのとないのとでは、映画の見方が変わってしまうかもしれない。映画上の警察、州軍、FBI、検察といった勢力がやっていることは、治安維持の度を超えた、とてつもなく酷い行為のように見える。しかしそうではなくて、治安維持勢力とはそもそもそのようなものなのだ。サルトルの言葉に必要な変更を加えて言えば、「善良な警察と悪辣な警察があるのではなく、ただ警察がある」。つまり、神話的暴力の担い手としての。  ジョセフ・ゴードン=レヴィット演じる検察官は、良心的な人物で、裁判を幾分か「フェアに」行う手助けをした。とはいえ、やはり彼もこの不当な裁判それ自体に対して、それを逆転させるような決定的な役割を果たすことはできなかった。重要なのは善良さではなく構造なのだ。 〈※1:ヴァルター・ベンヤミン、浅井健二郎訳『ドイツ悲劇の根源 下』筑摩書房、一九九九年、二四九頁〉

我らの血を流せ

 個人的にこの映画のクライマックスは、ラストシーンの少し前、エディ・レッドメイン演じるトム・ヘイデンが、「暴動を煽っている」録音テープが発見され、窮地に陥る場面だ。彼ははっきりとこう叫んでいた”If blood is gonna flow, let it flow all over the city.”(もし血が流れるなら、街中に血を流せ)。検察側は、これを治安維持部隊に対する暴力の扇動を示す証拠と捉えている。  しかし、トムとマーク・ライランス演じるクンスラー弁護士との模擬裁判で明らかになったのは、bloodの省略された所有格である。それは警官の血ではなく”our blood”つまり我々の血、であった。警官が行っている酷い暴力を敢えて受けることで、それを人々の目に焼き付けさせる。それで何かが変わるかもしれない、と。  英語の字幕を見てしまうと、トムの演説はデモ参加者が警官に殴られ血を流したのを受けてのものだからIf節のbloodは当然ourであり、それを受けた指示語itの所有格もourに決まっていると思ってしまうので、文法上主文の「血」と副文の「血」を別物として理解することが可能な日本語字幕や吹き替えを見たほうがよいかもしれない。しかしその場合、ourの挿入が、所有格の曖昧さを利用したトムの後付けの言い逃れに聞こえやすくなるが。  ベンヤミンは先述の神話的暴力に対するための、神的暴力なる概念を構想していた。しかしこの神的暴力については、具体的にどのような暴力かをベンヤミンは指示しておらず、ただほのめかされるだけである。従って、神的暴力は現実においてどのような力として現れるのか、その解釈に応じて様々な議論がある。  「神話的な暴力は、たんなる生に対する、暴力それ自体のための、血の暴力であり、神的な暴力は、あらゆる生に対する、生ある者のための、純粋な暴力である。神話的暴力は犠牲を要求し、神的暴力は犠牲を受け入れる」(※2)。  「神的暴力は犠牲を受け入れる」。この一節は、この力についてひとつの解釈を提示するためのヒントとなる。血なまぐさい神話的暴力が要求する犠牲を、神的暴力は受け入れる。  これは、映画の中でトムが示した道筋と相似している。警察の暴力がデモ隊の血を要求するなら、デモ隊は街頭に繰り出し、その要求に応える。”If o u r blood is gonna flow, let it flow all over the city.”それは無力な民衆が直接行動において、偉大な力を行使しうる可能性のひとつなのかもしれない。 〈※2:ヴァルター・ベンヤミン、浅井健二郎訳『ドイツ悲劇の根源 下』筑摩書房、一九九九年、二四九頁〉

シカゴ7裁判の意義

 シカゴ7裁判は、さまざまな思想の、さまざまな政治的目的を有した人々が、このような不当な政治裁判を通して、互いを受け入れていく過程を描いている。皆がそれぞれどこかは間違っており、あらゆる運動は、結局はうまくいかない。  だからと言って運動が無意味なわけではないのだ。映画を通して我々が過去の運動について想起するように、現在の運動も、将来また想起の対象となる。アメリカでBLM運動が大きなうねりとなって現れているときに、こうした映画が公開される意義はあるといえるだろう。 <文/藤崎剛人>
ふじさきまさと●非常勤講師&ブロガー。ドイツ思想史/公法学。ブログ:過ぎ去ろうとしない過去 note:hokusyu Twitter ID:@hokusyu82
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