映画『シカゴ7裁判』があぶり出す警察の「神話的暴力」。対抗する術はあるのか

不当な政治裁判

シカゴ7裁判

ネットフリックス公式サイトより

 アーロン・ソーキン監督『シカゴ7裁判』が10月9日から公開されている。Netflixでは10月17日から配信がスタートした。1968年にシカゴの民主党大会で起きた「暴動」を扇動した容疑で、7人のデモ参加者が起訴された。この映画は、その7人、通称シカゴ・セブンの裁判を題材にとっている。デモや「暴動」を映した当時の生々しい映像が時々挿入されることもある。  この裁判は明白な政治裁判であり、7人のデモ参加者を見せしめに有罪とすることで、市民の直接行動を恫喝するためのものであったことが、物語の冒頭で明らかにされる。裁判は、検察のストーリーに沿って進められる。被告に同情的な陪審員は差し替えられてしまう。被告に有利な証拠は採用されず、証人は妨害される。被告側にフラストレーションが溜まるのは当然であり、法廷で抗議するたびに、法廷侮辱罪とされてしまう。  史実でも、第一審で5人に出された有罪判決は裁判官の偏見の産物であったとされ、上訴審で逆転無罪となっている。物語を通して、現代のBLM運動にも通じる、「暴動」を媒介とした権力による直接行動統制の問題がはっきりと描写されている。

「暴動」の原因

 起訴された7人はそれぞれ、比較的デモをリードする立場ではあった。しかしデモの主催者と参加者は本来的に、「ボス」と「配下」の関係にはない。デモの参加者はそれぞれが主体的にデモに参加している。こうした水平的関係において、組織的統制でもって暴動を起こすことは難しい。  しかし警察と検察は、そうした事情をある程度察しながら、わかりやすいストーリーをつくりたがる。暴動はデモを率いているリーダーの仕業だとして、リーダーを抑えることでデモの自由を統制しようとするのだ。  映画では、警察や軍隊と一触即発になりそうなほとんどの局面で、シカゴ7の面々は参加者にむしろ冷静な行動をとることを呼びかけていた。筆者が直接行動にスタッフとして参加した経験でも、デモの主催者は参加者を危険に晒さないために、極度に無秩序な行動を取ることがないよう呼びかけるものだ。  しかし、それでも衝突は起きることがある。そうした衝突は、必ず警察(あるいは軍隊)の手によって引き起こされる。警察が、市民の固有の権利である政治的行動の自由を過剰に妨害し、挑発し、暴力的な介入を行うなら、当然ながらそれらに対抗する民衆の怒りのエネルギーもいずれ爆発する。そのエネルギーが「暴動」という無秩序な形態を取ることがあるのも仕方がない。それは主催のコントロールを超えた、民衆の自然な「政治的」自己表出だからだ。  そうした民衆のエネルギーを暴発させるかさせないかの選択肢は、デモの主催者ではなく、警察権力の手に握られている。劇中でもはっきりと主張されていたが、「暴動」を引き起こしたのは警察だ。付言するなら、そこに細かな事実関係のチェックは必要ない。なぜなら、それは構造的に引き起こされた暴力だからだ。  この構造は、有名な寓話で説明することができる。「自分の掌の中に小鳥がいる。この小鳥は生きているか?死んでいるか?」ある男が賢者に対して問いかける。賢者が生きていると答えれば男は小鳥を握りつぶし、死んでいると答えれば男は小鳥を逃がす。どちらを選んでも賢者は間違ってしまう。そこで賢者は答える。「その答えは汝の掌の中にある。」  警察は市民運動を挑発し、民衆の怒りが爆発すれば弾圧し、爆発しなければそのまま弾圧する。そのとき、行動の選択権は誰の掌の中にあると言えるのか。それをはっきりと示すべきなのだ。
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神話的暴力装置としての警察
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