『背番号0』の野球場のモデルになった公園の入口にはモニュメントが
『背番号0』モニュメント
そして先に紹介した「豊島区トキワ荘ミュージアム」では、2階に各マンガ家の部屋が再現されていて、まさに昭和30年代の雰囲気が醸し出されています。また1階には企画展、常設展のスペースもあります。
実際の「トキワ荘」は1982年に解体されましたが、このアパートに住んでいたマンガ家たちが、現在にいたる商業マンガの本流を作ったことは紛れもない事実です。だからこそ伝説のアパートとして、多くのマンガファンの人々に知られているのでしょう。
そういう意味で、「トキワ荘」の文化的、歴史的価値はとても高く、東京都豊島区が2020年にまちづくりの一環として、「マンガの聖地としま」の発信拠点となるマンガ、アニメをテーマとする、トキワ荘を復元したミュージアムが開設されることになったようです。
ミュージアムを左手に見て真っすぐ歩いていくと、南長崎スポーツ公園があります。ここは以前、東京海上火災保険のグラウンドだったところです。多目的広場がその時代の名残なのかもしれません。
当時の空撮写真を見るとグラウンドは四角形をしていて、野球グラウンドのようにも見えます。『背番号0』の野球場のモデルはここだったらしく、南長崎スポーツ公園の入り口には「背番号ゼロ」のモニュメントが設置されています。
今よりも野球が少年たちの身近にあった時代のノスタルジー
昭和30年代というと今から約60年前になります。全国至るところのグラウンドや空き地で、日が暮れるまで白いボールを追いかけていく少年たちの姿を目にした時代です。筆者も同時代の生まれですから、微かな記憶として頭の片隅に残っています。
川本三郎が著作の中で何度も高度成長期の住宅地の開発による「原っぱ」の消滅について言及していますが、いわゆる草野球は「原っぱ」を舞台にして行われていた時代です。少年たちにとって今よりももっと野球が身近にあった時代ともいえるでしょう。
さて、一貫して正統派の児童マンガだけを描き続ける寺田ヒロオの作品は、時流から次第に取り残されていきます。当時、台頭してきた劇画批判を繰り広げるようになり、次第に執筆のペースも落ちていきました。1964年の『暗闇五段』の終了を機に週刊誌の連載から撤退、活動の場は小学館の学習月刊雑誌に限定されるようになります。そして1973年には絶筆の運びとなるのです。
ただ他の「トキワ荘」の面々もそうですが、寺田ヒロオの描いた作品は当時の少年たちから幅広く支持されました。また野球マンガの黎明期を作ったマンガ家のひとりといっても過言ではないでしょう。
現在も復刻版で『背番号0』は入手できます。昭和30年代へのノスタルジーを踏まえながら読んでみることをお勧めします。そして寺田ヒロオを始めとした「トキワ荘」というマンガの聖地探訪も、また楽しいひとときを与えてくれると思います。
もうほとんど当時の面影の残っていない界隈になっていますが、その現在の風景の向こうに透けて見える昔日の椎名町界隈が、幻のように目の前に広がっていくに違いありません。
【野球マンガの聖地を巡る旅 第1回】
<文・写真/増淵敏之>