日本の野球マンガがいつから始まったのかというと、戦後まもなく創刊された『漫画少年』に連載された井上一雄の『バット君』からだとされています。
1947年に『漫画少年』創刊とともに連載が開始され、井上が1949年に亡くなったため終了を余儀なくされます。その後、福井英一が引く続くことになります。呉智英は、著作である『
現代マンガの全体像』(双葉文庫・1990年)のなかで、野球技術や試合の勝敗よりも少年たちの日常における友情や誠意をユーモラスに描いた作品として、この作品を「
明朗野球マンガ」と呼んでいます。
この作品に影響を受けてマンガ家を志したのが、
寺田ヒロオでした。彼は
藤子不二雄Ⓐの『
まんが道』や映画化された『トキワ荘の青春』などでは、面倒見のよい先輩として描かれています。高校時代から野球に熱中し、都市対抗野球にも出場した経験を持っていました。代表的な作品は『
スポーツマン金太郎』、
『背番号0』などの野球マンガですが、ここでは後者をたどっていきましょう。
『背番号0』〔野球少年版前編〕【上】(マンガショップ)
『背番号0』は1956(昭和31)年に『野球少年』で連載が開始され、以降『少年サンデー』『小学館学年誌』『ボーイズライフ』と掲載誌を替えながら、9年簡にわたる長期連載作品となりました。
主人公はごく普通の野球少年で、彼が所属する椎ノ木町のZチームのメンバーとの交流が日常目線で描かれている。野球の試合や学校、家庭生活、町内会でのできごとを通じて、友情やチームワークの大切さをテーマにした子供向けの作品です。
多くのマンガ家たちの思い出がつまった「トキワ荘通り」
トキワ荘ゆかりの地散策マップ(豊島区)
昭和30年代初頭、日本は戦後の復興期を経て、高度経済成長期へと突入していきます。現在とは違った家族のあり方、町内会のコミュニティの存在と古き良き時代を示唆してくれます。椎の木町は、トキワ荘のあった椎名町がモデルになっているという話が定説です。
2020年に豊島区によってもうすでに取り壊された
「トキワ荘」が区立南長崎花咲公園にミュージアムとして復元されました。「トキワ荘」は手塚治虫、石ノ森章太郎、藤子不二雄、赤塚不二夫などのマンガ家が住んだアパートとして知られています。手塚を除いては皆、新進のマンガ家でした。
さてもともとの「トキワ荘」があった場所は、西武池袋線の椎名町駅から南西に徒歩5分ほどの場所です。現在は「トキワ荘跡地モニュメント」が設置されています。そこから少し歩くと、トキワ荘通りに出ます。ここには「豊島区トキワ荘通りお休み処」や当時、彼らが通った「第一マーケット」跡、「鶴の湯」跡などが近隣にあります。
跡地に関しては説明プレートがあるので、とてもわかりやすくなっています。
また1950年頃に開店した「中華料理 松葉」が現在も営業しています。「トキワ荘」のマンガ家たちが当時、1杯40円のラーメンの出前をよく取っていた、「トキワ荘」関係のマンガなどにも登場する店です。マンガ家の色紙も店内に飾られてもいます。
この「トキワ荘通り」が寺田ヒロオの作品にも出てくる商店街のモデルのような気もしますが、ただ店も随分さま変わりをしているはずですし、マンガの中のような賑わいは残念ながら昔日のものになってしまったのかもしれません。