自由民主的な憲法とそれに基づく法体系が、いかに権力抑制のための規範を保持していたとしても、いったん権力者がなりふり構わない実力でもって法をねじ曲げてしまえば、規範は無力であり、権力者の恣意でつくられた法の「例外」が法となる。たとえ99人が任命されたとしても、排除された6人が、日本学術会議の性格を決定する。つまり構成員に選ばれたければ、優秀な研究者であるだけでは不十分である。自民党に歯向かってはならない。ドイツの法学者イェリネックはこうした、新たな法を作り上げる実力を「
事実の規範力」と呼んだ。
もちろん、事実的なものの力は軽視できない。社会運動は下からの事実的なものの力によって、新たな法への回路を開く。ローザ・パークスは、人種を分離する法律を破り、白人の席に座り続けたという事実の力によって、公民権法への道をつくった。
しかし、強大な権力が意のままに規範を破り、新たな規範を打ち立てるのではもはや専制だ。国家が自ら、その強大な力を法に義務付けることによって、立憲主義は成り立つ。イェリネック風にいえば国家の「自己拘束」だ。
人間の自由は、国家そのものを破棄しない限り、国家の「自己拘束」のもとでしか成立しない。
法に自らを義務付けた国家は、権力の分立や、政府から独立した立場で政府に様々な提言をすることによって権力を制御する諸機関を受け入れる。その時々の政府の政治的立場に対して、法解釈や学識には客観性と一貫性が求められる。しかし
現政府は、こうした権力を制御する制度から核心部分を剥奪しようとしている。
立法府は行政府のチェック機能を持つ。議院内閣制のもとでは内閣と与党が事実上一体化しているので、その機能は野党が担う。その際、憲法53条に基づく国会召集要求は立法府が持つ武器だ。もし国会が開かれないのであれば、その行政監視能力は制約されてしまうし、行政府のやりたい放題が加速する。
内閣法制局であれ、日本学術会議であれ、人事の独立は、その機関が高度な独立性を保つための核心部分だ。そこに手を入れてしまうと、法や学術に基づいて政策をコントロールすることもできなくなる。その枷を外そうとしている政府には、理性を要求することも出来なくなる。
行政府に対するコントロールを一掃しようとする立憲民主主義の危機に、嘆かわしいことではあるが、安倍・菅両政権の立場を擁護する人も存在している。彼らによれば、選挙によって勝利した政党の指導者が総理大臣として任命権を独自に判断して行使するのは当然だ、という。それに対して、民主的正統性に基づいていない日本学術会議は既得権である、というのだ。
まず前者については、
いかなる権力者だろうと、法によって自らを拘束することが立憲民主主義では求められているということ。後者については、
日本学術会議それ自体に様々な問題があったとしても、その学知によって政府に提言を行うという性質上、人事介入により制度上の独立性そのものに手をつけることは許されないのには変わりない。この機関が有する理想は、長年にわたって骨抜きにされてきた。国家の介入をさらに強めることは、その流れに拍車をかけることにしかならない。いずれにせよ、かの6人が排除されなければならなかった説明にはなっていない。
さらには、軍事研究を行わないという声明を出している日本学術会議こそが「学問の自由」を侵害しているのではないかという声もある。これについては、
防衛省など政府の軍事セクターと学究との距離は適切に保たれていなければ「学問の自由」は成り立たないという過去の教訓がある。かつての日本では、「国策」の名のもとに、学問研究が歪められていた。軍事研究を特別扱いする主張の中には、技術は中立であるという技術信仰も含まれている。しかし、そのような
中性化された技術信仰こそ、時の政権によって、もっとも政治的に扱いやすいものなのだ。