本作で描かれる危険性はネットやSNSの中毒だけに止まらない。劇中では「SNSは人を殺したり、自殺を招いている」とも、はっきりと言い切っている。
若者が「帰宅して最初にSNS」のような依存状態になっていること、恋愛やデートの比率も下がっていて、10代の少女の自傷行為や自殺までもが増加傾向にあることがデータとして語られている。彼女たちは「美しい自撮り」が自分のアイデンティティーにまでなっており、短絡的な“いいね”を儚い人気に過ぎないと気づいていない、それが大きな価値や真実だと勘違いしている、とも示されている。
はたまた、SNSが社会の分断を招き、暴動につながったり、悪意のある軍団に利用されたり、また新型コロナウイルスのフェイクニュースや陰謀論の拡散にも繋がったりと、完全に人の生き死に関わる、大規模かつ深刻な事態も例に挙げられている。劇中ではジョークのように、「何が一番怖いかと言われれば、直近で一番は、内戦かな」とも語られていたが、ちっとも笑えない。
ドラマパートによりディストピアSF映画にも見えてくる
劇中ではTwitter、Facebook、Instagram、YouTubeなど、そうそうたるテック企業で働いてきた元社員たちが、前述してきたソーシャルメディアおよびSNS、そして監視資本主義の社会の危険性について語っている。それと並行する形で、ごく平凡な家族の姿を通じて、若者がいかにソーシャルメディアおよびSNSに依存しているかという例を見せるドラマも描かれている。
このドラマパートは全体からすればごく短く、またシンプルなものだが、だからこそ身近な恐怖として映る。例えば、一家の母親は「ご飯を食べている時はスマホ禁止」として、タイマー式のケースの中に家族みんなのスマホを入れたりするのだが、思春期の娘はそのことに耐えられない。
また、高校生の息子は母親から「一週間スマホを我慢できたら、割れた画面を直してあげる」という条件を告げられ、劇中では「残り時間」も示されたりもする。スーパーコンピューター(AI)が“3人の男”として擬人化され、彼に何とかしてスマホを使わせようともする。それをもって、「ソーシャルメディアおよびSNSは現実世界での行動と感情をユーザーに気づかれずに操れる」という恐怖も呼び起こす。
このドラマパートのおかげもあり、現在進行形の現実の世界を示しているはずなのに、まるでディストピアSF映画を観ているような感覚にも陥る。劇中では『ターミネーター』(1984)の例を出して「武器を持って襲ってこなくてもAIは人間を支配しているじゃないか」ということ、『トゥルーマン・ショー』(1998)のように「ソーシャルメディアおよびSNSも個人の人生を管理し支配しているのかもしれないぞ」ということも示唆される。
ディストピアSFは往往にして「現実の先に起こり得る最悪の未来の世界」を示しているのだが、「まさに“今”がディストピアSFになっているじゃないか」という皮肉めいた現実が、そこにはある。