新・立憲民主党になる前から、立憲民主党はベーシック・サービスの拡充を掲げてきた。しかし、ネットを中心に立憲民主党の再分配政策は不十分だという声も大きかった。その理由のひとつは、
消費税をめぐる意見の違いによる。
枝野幸男は民放の番組に出演した際、コロナ禍における経済政策のひとつとして、時限的な消費税率の引き下げに言及した。しかし、恒久的な消費税率の引き下げについては一貫して消極的である。
それに対して、日本社会には
消費税悪玉論が根強くある。それはアベノミクス支持者からリベラル左派にまで浸透している。消費税を増税すると個人消費について大きな影響がある。また、高所得者も低所得者も同じ税率であるのに加え低所得者は消費性向が高いので、累進課税である所得税や法人税と比べて逆進性が大きい税制とされるのも再分配政策と相性が悪いとされる。日本では消費税の導入以降、法人税が下げられ続けてきた。消費税の増税は実質的には法人税減税の穴埋めであり、格差拡大に寄与することになった。
しかし本来的には
消費税は租税体系と給付をめぐるバランスにおいて考えられるべき問題である。日本より消費税率の高い欧州諸国では、所得再分配後の格差は日本より縮小している。極論だが、消費意欲への影響を度外視すれば、消費税を5%あげ、その分を日本の人口で均等に配分するとすれば、低所得者は払った以上の金額を手にすることができるはずである。
したがって、消費税の減税なくして再分配政策なしとするような一部の極端な論調には与するべきではない。もちろんコロナ禍における経済政策としての消費税減税については検討する余地があり、行政サービスを向上させるための増税を新たに行う場合、まずは消費税よりも所得税などの累進税率の引き上げを検討するべきだろう。
だが、それでも消費税は租税体系の一部にすぎず、それ自体が新自由主義政策なのではない。むしろ消費税減税やベーシック・インカム導入などのネットでは評価が高い政策ほど、新自由主義に接続する危険性が大きい。そうした「単純な」議論ほど、公共性とその責任の所在をめぐる複雑な議論を避けることができるからだ。
ここで明言しておくが、筆者は立憲民主党の利害関係者ではなく、その内部で行われている議論について知りうる立場でもない。保守系議員や新自由主義を支持する議員もいる立憲民主党が、スローガン通りに新自由主義と決別することができるのかはいまだ未知数である。また、新自由主義とうまく決別できたとしても、階級闘争という観点を欠いた「第三の道」路線がうまくいくかどうかは検討の余地がある。
さらに問題なのは、
歴史認識である。日本軍「慰安婦」問題や徴用工の問題については立憲民主党の立場は安倍政権とほとんど変わることはない。歴史修正主義に加担している議員さえいる。
人々が「支え合う社会」に必要なのは人権意識であり、歴史認識はそのリトマス試験紙である。この点については、合流新党のみならず日本のリベラルの課題だろう。
一方で、新・立憲民主党について二大保守政党の改革競争という55年体制以降の傾向にいったん終止符が打たれたことについては評価するべきだろう。
「自己責任から支え合いへ」のスローガンは党の憲法である。このスローガンを立憲民主党が貫徹できるかは、市民の監視にかかっている。盲目的に支持するのではなく、かといって短絡的に見放して青い鳥を負うのでもなく、適切な距離を保ちながら理念の実現を求めることが、政党を育てることにつながる。かつての民主党系政党も、左派リベラル的に活用できるような理念を掲げていたのだが、市民がそれらを育てようとはせず、必要以上の警戒と攻撃をしてしまうことによって、それが成熟する前に崩壊するということを繰り返した。
政党は民主主義における戦略的な手段以上のものではない。全面的に信用できる政党は存在しない。政党が有用なものとなるか、無用なものとなるかは、市民の適切な現状認識とその活用にかかっている。
<文/藤崎剛人>