8月15日の午後には、靖国神社に反対する人々のデモ行進が九段下を通る(靖国神社の傍を通れないのは警察が妨害するからだが、本来
届出制のデモで、警察がデモのルートに干渉すること自体がおかしいとは指摘しておく)。デモ隊より多い人数の警察が、その周囲を取り囲んでいる。デモ隊は靖国通りを右折して目白通りへと至る。その曲がり角に、在特会などの極右・排外主義者グループが待ち構えている。街宣では、朝鮮・韓国人を「ゴキブリ」と罵り、あくまで比喩だと言い訳したうえで、靖国神社に反対する勢力を「殺せ」とはっきり主張していた。
極右・排外主義者は、デモ隊が通ると一斉に罵声を浴びせる。ペットボトルなどのモノが投げ入れられる年もある。今年は筆者がデモ行進に途中参加しようとして鉄柵に阻まれ、高速道路のあたりで行動不能になっていためその瞬間は見ていないが、場合によっては怪我人が出ることもある惨状だ。
「英霊が喜ぶのは靖国神社の静穏だ」といった言説を好む人々にとって、靖国に反対する勢力は当然嫌悪の対象なのだが、それに対抗する極右・排外主義者も同じく嫌悪の対象になっている。両方がまとめていなくなればいいとの声も聞かれる。
しかし、相対的に平穏な靖国神社境内と、九段下の喧騒は、これもまた切り離せないものなのだ。極右・排外主義者は、靖国神社を守っている。彼らが反靖国運動に対峙するという汚れ仕事を行うことによって、靖国神社の静かさは維持される。のみならず、靖国神社を参拝する者は、九段下の極右勢力には眉を顰めることによって、戦争神社へと参拝する自分自身の右翼性を漂白することができる。警察は、混乱回避を口実に、デモルートに鉄柵を張り巡らし、デモ隊と市井の人々との間を断絶させることができる。
靖国神社は、いつでも切れるトカゲの尻尾を必要としている。極右・排外主義勢力が批判されることは織り込み済みなのだ。また、軍服コスプレが批判されることも織り込み済みだ。場合によっては、近い将来、靖国神社は奇人変人たちを出禁にするかもしれないし、いかにもな格好をした民族派右翼団体すら規制するかもしれない。
しかしそれは靖国のリベラル化を意味するのではない。逆に、そのときには既に、靖国神社の「メタ政治」は勝利しているだろう。そのときには、
靖国的な歴史修正主義や、国家のために死ぬことを顕彰するナショナル・イデオロギーが、日本社会の隅々まで浸透しているに違いない。
従って、
個別の表象に囚われるのではなく、靖国神社という総体に着目する視覚が必要なのだ。
<取材・文/北守(藤崎剛人)>