コロナ禍の8月15日、靖国神社を訪れる「普通」の人々の慰霊感情と忍び寄る「臣民化」

8月15日の靖国神社のスペクタクル

 靖国は巧みに設計された神社である。巨大な鳥居がある幅の広い400mの参道は、勾配まで含めて計算されており、崇高さの演出に使われている。鳥居の前でお辞儀をするという風習はいつから始まったのか。ここ数年でお辞儀をする人の数は増え続けているが、誰かがお辞儀をするとその次の人もそれを真似するという傾向があり、一種の「文化」がハビトゥスとして形成されていく瞬間が見られる。  参道を歩く家族の隣で右翼団体が整列している。脇の木陰で休んでいる若者カップルがいて、その反対側にはコスプレ集団がいる。どれが靖国のあるべき姿かではない。これら全てが集まって、靖国神社のスペクタクルを構成しているのだ。右翼的なイデオロギーはよくないが、戦没者に対する大衆の素朴な感情は大切にすべきだという靖国容認論は誤っている。  なぜなら、両者は靖国神社の空間において、完全に調和しているからである。特攻服的な制服を着て、旭日旗を掲げて行進する右翼の横で、子供たちが平然と遊んでいる。大人も眉をひそめる様子もない。それはすでに風景の一部だから。右翼イデオロギーと、一般大衆の素朴な慰霊感情なるものとの間に切れ目はない。  正午の黙祷の瞬間は、その一体性が露わになる瞬間である。右翼も、遺族会がらみと思われる団体客も、テーマパークにいるかのように振舞っていた家族連れも、その瞬間、皆が直立不動となり、同じ方向を向いてじっと玉音放送を聴く。8月15日の靖国的なもののクライマックスである。すなわち、そこで2020年の8月15日を生きる、多少なりともリベラルな感性を持っていると思われる現代人が、1945年の8月15日を生きたような「臣民」と一体化するのだ。

「メタ政治」としての靖国

 戦没者慰霊とは、けして靖国的なものでなくとも、それ自体がナショナリズムの契機なのである。まして靖国神社のような明らかなる”war shrine”の問題を考える際、なぜコスプレ右翼、あるいは日の丸右翼だけが問題になるのか。全く理解できない。  むしろ問題は、その導入部分にあるのではないか。つまりライトな参拝客の増加である。「戦没者のおかげで今の平和がある」という、因果関係のまったくわからないエモーショナルなフレーズを容認し続けた結果、閣僚が国のために死ぬことを顕彰する神社に参拝することを容認、あるいは当然視する空気がつくられたことを問題にするべきだろう。人々が、自然と臣民的な所作や思考を取るようになってしまったことを問題にすべきだろう。 靖国神社  つまり靖国神社とはそれ自体がすでに「メタ政治」(フォルカー・ヴァイス)なのである。「メタ政治」とは、直接的な現実の政治というよりは、エンタメなどを駆使して、より基層的な、いわば文化(政治文化)の領域をまず自分たちの色に染めていこうとする運動である。  靖国神社は、その侵略戦争擁護、国のために死んだ人物の顕彰という性格を維持したまま、みたままつりなどのイベントを通して、カジュアルに参拝できる場所というイメージづくりに成功している。戦没者慰霊という政治的な問題を美学化することによって、家族連れを呼び込むことに成功している。  遊就館では現在、刀剣展が行われている。明らかに、某女性向けソーシャルゲームのユーザーの獲得を視野に入れた企画だろう。事実、土産物コーナーには女性向けと思われる千代紙や小物などのグッズと一緒に、刀剣のミニチュア模型がちゃっかりとディスプレイされていた。そしてSNSなどを確認するかぎり、その目論見はある程度うまくいっているようである。
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「極右」の利用価値
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