「言葉」のやり取りとしての対話を真剣に考える時代へ
精神科医のジャック・ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」と言いました。つまり、自分の欲望は実は他者の欲望のコピーだということです。「他者の欲望」をコピーして発するのではなく、「自分の欲求」を知り、自分の言葉を発するのは、それなりに大変な作業で、ある程度のトレーニングが必要なのではないでしょうか。
「言葉」というものをもう一度見直す時代。そして、「言葉」のやり取りとしての対話を真剣に考える時代へと舵を切る必要があります。そうした基礎的なことを、大人になってしまうと「再学習する」機会がないことが、そもそも危ないだろうと思うのです。
もちろん、非言語での身体を介したコミュニケーションも、人間には絶大なる影響があります。医療現場で言葉以上に、ダイレクトな身体を介した対話を行っている自分としても痛切に感じていることです。そうしたこともともに考え、深めていく時代へと進んでいく必要があるのではないでしょうか。
本来、対話は極めて創造的なものです。自分は、医療者としても1人の市民としても、そうした安全で安心な場をつくる責任があると日々痛感しています。聖域であるたましいを守り、いのちを守るためにも。
三浦春馬さんの訃報を聞いた後に、散歩に出ました。コンクリートに踏んづけられている植物を見ても、蜘蛛の巣に浮かぶ一滴の水滴を見ても、こどもが作るシャボン球を見ても、青空を飛ぶ鳥を見ても、自分には彼の魂の影のように見えてしまい、涙が止まりませんでした。
人が一人亡くなるとき、世界はグラリとバランスが崩れるのを感じます。そして、また何か別の形へと変わっていきます。わたしたちが心を動かして日々を生きていれば「ひとりの死も無駄にできない」と自分の心が強く動いていることも感じるはずです。
【いのちを芯にした あたらしいせかい 第5回】
<文・写真/稲葉俊郎>