日本政府の認識を確かめるため、外務省、警察庁、内閣官房に情報公開請求
では日本政府はどのような認識だったのか。私はこのほど、
外務省、警察庁、内閣官房に情報公開請求をした。
外務省に対し、最初の3人の人質事件と私の拘束の件についてのすべての文書を請求し、保存しているとした68の文書のうち、29は非公開決定、残りは全部もしくは一部が公開された。外務省の場合、個人情報開示を請求しても対象になるのは提出した旅券申請書類など形式的なものになるので、第三者が請求する場合と同様に請求した。
警察庁には第三者として請求してもほとんど公開されない可能性があると考え、私自身に関する事件についての個人情報の開示を請求した。結果、警備局外事情報部・国際テロリズム対策課が「在イラク邦人人質事件の捜査状況」「在イラク邦人拘束事件(総括)」「国際テロ緊急展開チーム(TRT)の現地活動結果(総括)」の3つの文書を公開した。
内閣官房についても同様の理由で個人情報の開示を請求し、私に関わる情報が含まれる5つの文書が公開された。
いずれも事件そのものについての新しい情報はないが、はっきりしたのは、
日本政府は私の事件を「人質」とは認識していなかったということだ。
例えば外務省が公開した、「平成16年4月20日」に「外務大臣発」で「全在外公館」に送られた「イラクにおける邦人人質事件」という件名のFAXには、最初の3人の事件と、私の事件についての「事件の概要」「政府の対応」「現地緊急対策本部の対応」と、時系列で記した「事件の経過」が書かれている。
解放後の「平成16年4月20日」付の外務省の公文書。今井さん、郡山さん、高遠さんについて「人質となったことを示す」と書かれている
3人の件については「人質となったことを示す映像が存在する」として「人質」と書かれているが、私たちの件は
「拘束されたとの未確認情報」「拉致された可能性」という記述にとどまっている。「事件の経過」では私たちの件は「
行方不明となっていた」という表現だ。
「平成16年4月20日」付の外務省公文書。筆者の件については「拘束されたとの未確認情報」とされている
3人の事件では拘束者からの映像が衛星放送アルジャジーラに届けられたが、私たちの件は声明や映像などは何もない。私の通訳による「拉致された」という目撃情報があっただけだ。通訳は在イラク日本大使館にも直接出向いて知らせ、自身の安全確保を希望したが、大使館は拒否したという。「拉致された」との情報自体の真偽を疑っていたと思われる。
解放後、対応の実質的な責任者であった当時の在イラク日本大使館の上村司・臨時大使に日本政府の対応を尋ねると「
従来からのネットワークを通じて、拘束の事実があるのかどうかの確認をしていた」と答えた。
もし拘束者から何かしら接触があれば、本当に捕まえているという証拠を求めるなどで拘束の事実は確認できる。それができていなかったのは拘束者側から何も接触がなかったからだ。私たちの家族をはじめ、拉致されたかどうか、拘束されたかどうかを含む私たちの状況が誰も分からず、連絡もつかない状態だった。「行方不明」という文言は事実を表していると言えるだろう。
外務省の公開文書はこのほかにもさまざまあるが、私の件で
「行方不明」「拘束」とは書かれていても、「人質」と記されている文書はない。報道では3人の件は「人質」で、私たちの件も一部メディアは「人質」としていた。しかし公文書では、3人の件は「人質」で、私たちの件は「人質」の表現は使わず明確に書き分けている。これは外務省が私の件を「人質」とは認識していなかったという証拠だ。
警察庁の文書は、ほとんどが黒塗りされていて私や家族の名前や住所程度しか読めない。「平成16年8月25日」付の「在イラク邦人人質事件の捜査状況」は「3邦人人質事件概要」と「2邦人人質事件概要」という項目があり、私たちの件でも「人質」という表現になっている。しかし、私の名前が「安田順平」になっていたり、実家の分譲団地が「県営団地」になっていたりと、誤った記載が多く信頼性に欠ける。
解放から3か月以上過ぎた「平成16年10月8日」付の警察庁の公文書。「在イラク邦人拘束事件(総括)」の表題とおり「拘束」と総括されている
「平成26年10月8日」付の「在イラク邦人拘束事件(総括)」もほぼ黒塗りだが、私たちの件のみの文書で、表題通り「拘束」になっている。「拘束」と総括しているのだから、警察庁もあくまで「人質」ではなく「拘束」であったと認識していることが分かる。