コロナ禍で考え直す学費と奨学金。栗原康が訴える「学生に賃金を」の真意とは

学費の減免ではなく無償化を

 また、栗原さんは奨学金の問題にも目を向ける。 栗原「いま大学はどこも自宅でオンライン授業。学生は大学の施設をつかうことすらできません。すくなくとも、『施設・設備費』は返せよといわなくてはいけないとおもいます。どの大学もそのくらいはすぐにできるはずです。そして、やっぱり大学無償化です。いま野党からは授業料減免などの案がでていますが、この際、減免などとケチくさいことをいわず、四の五のいわずにちゃんと無償化をやってもらいたいです。  それから、これは学生というよりも、自分の問題なのですが、わたしは奨学金を635万円ほど借りていていまだ返せていません。数ヶ月、滞納しています。とくにこの2ヶ月ほどは無収入。そんな状況であるにもかかわらず、日本学生支援機構からはなんども奨学金返還の催促がきています。実家にも電話がきて、70歳をこえた母親が大声でまくしたてられ、あまりのこわさに泣かされてしまいました。だれもが生活苦であることをしっていながら、そんなことをするのはほんとうにタチがわるい。非人間的な所業です。きっとおおくのひとがいまおなじ目にあっていることでしょう。すぐにやめてもらいたい」  栗原さん自身が経験している奨学金をめぐる諸々の問題点や、また、たとえば今年4月に実施された通称「大学無償化法」の問題点などについては本の中でも触れられている。これは大学や専門学校など高等教育機関で、希望者のうち条件に当てはまるもののみに入学金や授業料を補助するものだが、たとえば高校卒業後2年以内に進学する必要がある、世帯年収が200~250万円以下、国立大学独自の減免制度がなくなり、かえって支援の減額や打ち切りにあう可能性があるなど、問題点も多く指摘されているのも事実だ。

就職に役立つことばかりになった大学

 なお、先述のごとく70年代から青天井のごとく上がり続けていった授業料だが、その指針となった71年の通称「四六答申」が問題の端緒にあることも記憶しておいて良いだろう。本の中でも触れられている。団塊世代の進学により大学が規模を急拡大していった状況下で、「国公立大の学費を私大並みに」「教育費は個人経済的に有利な投資とみなしうるので受益者負担」とした内容の答申だが、「教育の質の変化」を示唆し、教育に市場の競争原理を持ち込むことを推し進めたものでもある。競争原理の導入と学生の金銭的負担の増加には深い相関関係があるのだ。授業料の高騰、奨学金をめぐる問題…。栗原さんはその大きな原因である、現在の大学を取り巻く状況についても批判の目を向ける。 栗原「2000年前後から、大学は学生の就職の役にたつことばかりをやるようになってきました。マイナー言語をとりつぶし、TOEICなどの実用英語を必須にする。コンピュータでも法律でも、資格試験をとるための講座がガンガンならぶ。そして大学の評価は就職率できまるので、もう教員たちをフル動員。ちゃんと卒業できるようにと、出席日数から成績までをカッチリと管理して、学生たちと面談に面談をかさねていく。どんな仕事がしたいのか、ちょくちょくはなしをきいて、たとえやりたいことなんてなかったとしても、自分でキャリアデザインができるように導いていかなくてはいけない。ブルシットジョブです。  きっと、大学当局はそれで学生の自由を保障しているとでもおもっているのでしょう。ほら、学生たちはいろんな科目のなかから、自分の仕事に役だつものを選べるようになりました、自分で自分の将来をつかめるようになりましたと。でも、それを自由ということはできないでしょう。はじめから、就職のための学習しかできなくなっているのですから。  わたしは早稲田大学に1997年入学でかよっていたのですが、正直、大学の授業でまなんだことなんてひとつもありません。だいじなことはすべてサークルでまなびました。出席の管理もゆるかったので、あまり授業にはでません。大学のキャンパスも空いているスペースはいくらでもつかえたので、そこにたむろして酒を飲んだり、勉強会をしたり、映画の上映会をやったり、ケンカをしたり。ひとによってはビラやミニコミをつくったり、立て看をつくったり。たいていはなんの役にもたちません。就職のためにはなりません。  ほんらい、大学のおもしろさは未知との遭遇にあります。こいつだれだよというような友だちからあたらしい本のはなしをきいたり、変な映画をおしえてもらったりする。しらずしらずのうちに、その友だちに触発されて、おもってもみなかったようなものがおもしろいとおもえてくる、夢中になっている。おのずとです、自発なのです。わたしはそういう自発を経験することが大学の本分だし、学生の自由というものなのだとおもいます。  しかし2000年以降の大学は、学生からそうした自由をうばいとることに躍起になってきました。重要なのは就職率をあげて、大学の価値をあげることです。キャンパスのジェントリフィケーションといってもいいでしょうか。ビラも立て看も大学のフリースペースをつかうことも、学生を就活からとおざけるものはすべてこわい、きたない、ウイルスだといわれて、あからさまに排除されてきました。除染です。  いまはそのなれのはてというところでしょうか。それでも学生のなかに、大学にいってよかったとおもう瞬間があるとすれば、きっとそれは当局の管理をすりぬけて、ふと自発をかんじたそのときなのではないかとおもいます。ちなみに、まだそんなのかんじたことがないよという学生さんには、ぜひ京大吉田寮をたずねてみることをおすすめします。一発だよ」  大学で大事なのは就職やキャリアデザインのための教育ではなく、たとえばサークルでの活動や「未知との遭遇」であるという指摘には、思い当たることが多い学生や元学生も多いのではないだろうか。
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「借りたら返す」を疑う
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