この映画の原題は”A hidden life”(隠れた生)である。直接的にはジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』から引用されているこの題名は、ギリシア語の哲学用語であるアレーテイア(真理)という言葉の、ハイデガーの解釈を連想させる。ハイデガーはアレーテイアを敢えて「隠れなさ(Unverborgenheit)」と訳している。真理を認識するということは、隠れていたものを露わにする(aufdecken)ことなのだ。
一介の農夫にすぎないフランツ・イエーガーシュテッターの人生は、埋もれたものであり、戦後になってもその名誉回復は、しばらくの間はなされなかったという。監督テレンス・マリックは、映画のタイトルに”A hidden life”とつけることによって(ドイツ語版のタイトルは、まさに” Ein verborgenes Leben”なのである)、ナチス政権下におけるフランツの生が、「隠れなさ」のうちに置かれてはいなかったことを明らかにしている。
様々な符牒から考えて、この映画を撮影したテレンス・マリックの思考に、ハイデガーの影響があるのは明らかだろう。1933年以来、自らの哲学用語を総動員させてヒトラー政権を賛美し続けたフライブルク大学総長の思想が、ナチス抵抗者を主人公とした映画に使用されているのは、いささかスキャンダラスである。
ここではじめて、監督がG・エリオットを最後に引用した意味が重要となる。
世界の善性を育むのは、幾分かは非歴史的行為に依存する。君や私にとって、物事が思っていたよりも悪くはならないのは、半分は頑なに隠れた生をいきた人の、もう半分は訪れる者のない墓の中にいる人のおかげなのである。
ハイデガーは、国民社会主義国家においてドイツ民族は「歴史的現存在」となると述べ、ナチズムを称賛した。それに対し、エリオットは、「世界の善性を育む」のは、「頑なに隠れた生をいきた人の」「非歴史的な行為」だと述べるのだ。この引用句を選択することによって、マリックは自らのメンターであるハイデガーに対して、意趣返しを行ったのではないだろうか。
つまり、「隠れた生」をアレーテイアとして認識することによって、テレンス・マリックは、世界内存在としてのフランツ・イエーガーシュテッターの生を意味付けた。そうすることによってはじめて、彼の生は「隠れなさ」のもとに置かれるのである。
<文/北守(藤崎剛人)>