「良心の呼び声」を聞くことは、神の声を聞くのとは異なる。この映画では、宗教的モチーフの多さに反して、彼の抵抗の根拠が神への信仰に置かれているとはいえない。確かに2007年に列福された現実のフランツ・イエーガーシュテッターは、徴兵拒否の抵抗を貫くにあたってカトリックの信仰心が重要であったとされている。しかしこの映画では、人と神とが取り結ぶ関係は、単純なものとして描かれてはいない。
フランツと親しい囚人は叫ぶ。「神は我々を見捨てた」と。奇跡は何一つ起きないし、神は姿を現さない。人間と神の間には隔たりがある。神的な領域と人間の領域は明示的に区別されている。この映画は、カメラワークが特徴的な作品でもある。全体的にはドキュメンタリーにも似た、人間目線での低い視点で撮影されている一方で、俯瞰的な視点はほとんどない。アルプスの山々の頂を空から映すシーンではあるが、ふもとの村々は雲に隠れて見えない。山々は神々が住まう世界の象徴であり、村々は人間が住まう世界の象徴だろう。テレンス・マリックは、そこに厳然たる境界線を引いている。
後期ハイデガーの論争的な概念に「四方域」(Geviert:天空・大地・神的なもの・死すべきもの(人間)の四つに区別される)があるが、この映画はこのカテゴリー論を採用しているといえるだろう。
神々は天空にあるが、人間は大地に住まう。大地の恵みに感謝し、人々が互いに協同して生活するザンクト・ラーデグントは人間が住まう場所である。大地に住まうということは、人間は死すべき存在だということだ。しかしだからこそ、フランツは人間の生に意味を見出しうるのだ。死すべき存在として世界に投げ出された(「被投」)自分自身の可能性を、ナチスに対する抵抗の中に見出す。これこそが、ハイデガーの用語でいう「企投」(Entwurf:一般的には草案、構想などの意)なのである。
人間は、世界の中に存在するという仕方で実存する(「世界内存在」)。しかしその世界とは、自分自身で選んだものではなく、現存在に対する一種の制約条件である。現存在が絶対に逃れられないものとして、死がある。しかし人間はその死を自覚することによって、自分自身の可能性を未来へと投げ込む(werfen)ことができるのである。これをハイデガーは、現存在の「被投的投企」と呼んだ。
したがって、フランツにとって、彼の行為が世の中に対して何の影響も与えないことは問題にはならない。彼の抵抗は、彼の実存に関わる問題だからである。