新型コロナウイルスによる「緊急事態」の宣言。起こりうる「人権の停止」に抗うために。

自己拘束なき行政権力

 確認しておかなければならないのは、現代の肥大した行政権力が、現行の法秩序の頭越しに権力を行使することは、やろうと思えば難しくはないということだ。もちろん近代民主主義国家は、三権の分立を憲法上の基本原理としている。立法府が法を制定し、行政府がそれを執行する。立法府が憲法に従って法律を制定しているか、行政府がそれを正しく執行しているか。それを審査するのは、独立した第三の機関である裁判所である。  ところが20世紀に入り、国家が担うべき役割が増加するにつれて、近代民主主義国家は執行権に権力の重心が集まる行政国家となった。特に議院内閣制においては、行政府と立法府の多数派が(通常は)一致する仕組みになっている。立法府と行政府の緊張関係は希薄化する。それどころか、立法府は行政府の必要に応じて法律を制定する上意下達機関と化してしまう。立法府の最後の砦となるのは、政権の腐敗や法案の問題点について、政府与党を厳しく批判する野党なのであるが、その役割の重要性は残念ながら日本社会において十分認知されているとはいえない。  最高裁判所は「憲法の番人」と呼ばれる。しかし日本の場合は、最高裁判所長官の任命権というかたちで、行政府は司法権に介入することができる。国民審査による最高裁判所長官の罷免権は、ほとんど換骨堕胎されている。最高裁判所の違憲立法審査権は、いわゆる統治行為論によって事実上の制限がある。そもそも違憲審査制を充実させることによって、有権者によって選ばれてはいない裁判官が事実上の立法機関となる(「司法国家」)ことについても議論がある。そこで、最高裁判所の代わりに内閣に対する「法の番人」となってきた内閣法制局であったが、第二次安倍政権は人事慣例を破り、法制局出身者以外の長官を据えることで、その番人を骨抜きにしてしまった。さらにまた、人事院を屈服させ、政権に近い検事長の定年を延長することによって、検察庁をも完全に支配下に置こうとしている。  国家機関の外部から権力を監視する役割を担うのが、マスコミである。しかしこれも安倍政権は、NHK会長や経営委員への「お友達」の起用や、新聞やテレビ局トップとの会食によって、懐柔に成功してしまっている。現在の日本の行政府は、対抗権力によるコントロールを全く望めない状況にある。  こうした安倍政権による一連の動きは、日本における現行法秩序に対する挑戦である。19世紀ドイツの国法学者G・イェリネックは、『一般国家学』にて、国家は制定された法に自己を義務付けるという国家の自己拘束説をとなえた。のちにこの学説は君主権を正当化するための欺瞞的な説だと自由主義勢力の批判を浴びるが、憲法学者の石川健治のように、むしろそれをカントの義務論的に解釈することによって(国家は自らを法に義務付けなければならぬ)、現状の日本においてそれを再評価しようとする動きもある。(※1)この観点からいえば、安倍政権は自己拘束なき行政権力である。

「緊急事態」の正統性

 規範主義的にいえば、日本の行政府が持つあらゆる権力は、すべて日本国憲法に由来する。裏返せば、憲法や制定法を無視した権力の行使は、いかなる正当性も持たないということである。しかし現実的には、コントロールが効かない政権の自由気ままな振舞いは追認されている。これを法規によって抑制することは難しい。「他のあらゆる秩序と同様、法秩序が基づいているのは決断であって、規範ではない」(※2) 。これは20世紀ドイツの公法学者であるカール・シュミットの言葉である。シュミットは『政治神学』において、法学的思考からなるべく人間の意志を取り除こうとする規範主義的な法学を批判し、現実の世界に対して秩序を与えるのは規範ではなく決断であるとした。  シュミットによれば、規範主義の無力さは「例外状態」という状態について考察することによって明らかとなる。「主権者とは例外状態において決断を下す者のことである」(※3) 。これは、『政治神学』の冒頭にある有名な一文である。日本国憲法では、国民が主権者であると定められている。しかしシュミットがここで述べているのはそうした政体論上の主権者ではなく、「例外状態」において権力を振るうものは誰なのか、ということである。規範主義の考え方では、この「例外状態」という状態を上手く扱うことができない。緊急事態について、憲法や法律で定めることができたとしても、今まさに現実に起こっている事態が緊急事態なのかどうかは、規範によっては判断できないからである。  というのは、「緊急事態」とは価値命題だからである。法規範は、「緊急事態」の際に国家が取りうる行動を定めることができても、いつどこで何が起こった場合が「緊急事態」にあたるのかを、すべて列挙することはできない。仮に新型インフルエンザやコロナウイルス等の感染症に限定した特別立法であっても、政府はやろうと思えば、それ以外の事態についても「緊急事態」だと拡大解釈することができる。荒唐無稽な話ではない。安倍政権によれば、たとえ3人の専従職員を引き連れていたとしても、首相夫人は「私人」なのだし、「桜を見る会」招待者名簿のバックアップデータは「行政文書ではない」のである。  「緊急事態」は規範それ自体からは導くことはできない。「今はまさに緊急事態だ」と主権者が言った場合、主権者は事実を記述しているのではなく、「我々は今のこの現実を緊急事態だとみなす」という決断をパフォーマティブに行っているのである。  この決断は、「緊急事態」を宣言することによって、そのために定められた法規範の適用を求めるものであるのと同時に、その決断自体が法規範と同等の効力をもつことを求めるものである。インドの叙事詩的映画『バーフバリ』(S・S・ラージャマウリ監督)で、マヒシュマティの最高権力者である国母シヴァガミは、自分自身が何か命令する際、最後に「私の言葉を法と心得よ!」と付け加える。主権をもつ指導者の言葉は単なる言葉ではなく、それ自体が法となるのだ。ホッブズは、「真理が法をつくるのではなく、権威が法をつくる」と述べた。主権者が現状を「緊急事態」と定めたのである。ならば、人民も、現状を「緊急事態」であるものとして行動せよ!
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「例外状態」における人間疎外
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