〈池田大作。その名は著名ながら実像を知る人は少ない〉というリード文が添えられた連載第1回は、その後の連載で展開される論考の方法論を宣言する内容にページの多くが費やされている。記事中の小見出しには〈公式サイトや機関紙 公開情報をソースに〉とある。全150巻の『池田大作全集』や創価学会ウェブサイト、機関紙『聖教新聞』を基本ソースとして連載を執筆していくのだという。
第2回以降も含めて、池田氏をイエス・キリストや弟子パウロになぞらえる記述以外は、露骨なヨイショ表現はない。一方で、明確な批判意識や客観的な検証姿勢もなく、むしろキリスト教のイメージと重ねたり「世界宗教」という単語を用いたりして、随所で創価学会や池田氏を権威化する雰囲気を醸している。
前述の藤田氏の「池田神話の追認」という評価は、これらを指してのものだ。
連載第1回で佐藤氏が述べている「方法論」を要約すると、概ね以下のようになる。
・筆者(佐藤氏)は大学時代に組織神学を研究した
・筆者の用いる方法はプロテスタント神学そのものである
・重要なのは研究対象の内在的論理をつかむことである
・筆者は外交官時代にインテリジェンス業務に従事した
・国家が公式の場で積極的に虚偽情報を流すことはない
・ゆえに池田氏の著作、教団の公式サイトや機関誌をソースにしたほうが内在的論理を掴むのに適切である
折しも安倍晋三首相の虚偽答弁疑惑が取り沙汰されている。
国家が公式の場で積極的に虚偽情報を流すことはないという主張には笑いを禁じえない。ましてや社会的批判を浴び、なおかつ国家レベルでの責任など負っていない宗教団体に関しては、前述の通りである。
佐藤氏は「神学」という言葉を使っているが、神学とは、教義や信仰のあり方を、その宗教の立場に立って研究するものだ。たとえばキリスト教の神学であればイエスの教えや権威そのものは否定しない、キリスト教自体の枠組みの中にある。
神学の内容を神学的アプローチで論じる姿勢も、それ自体が神学だ。佐藤氏の連載は、創価学会という特定の宗教の論理の枠を出ない「創価学会神学」であると言いたいところだが、私は「神学」という言葉を使うこと自体に抵抗を感じる。
キリスト教神学も、必ずしも聖書や教団の公式刊行物だけに依存するとは限らない。客観的な歴史を追おうとする場合もあれば、現場の信仰生活に目を向けることだってあるだろう。他者の論考などを援用あるいは批判も当然ある。
後述するが、教団の公式刊行物に依存する方法論を佐藤氏は「内在的論理」をつかむものだと主張しているものの、実際には教団が発信する「建前」の研究にすぎない。これを「創価学会神学」と呼んでしまっては、キリスト教神学を建前研究扱いするようで気が引ける。
やはり、前述の藤田氏のコメントのように、これは「池田神話の追認」であって、神学と呼べるほどの深い話ではないように思う。
そして創価学会は確かに巨大組織だが、信者はせいぜい日本の人口の数%と言われる。日本は創価学会社会ではない。『AERA』は創価学会の刊行物でもなければ信者の同人誌でもない。一般の報道メディアである。
社会的な問題意識や客観性が重視される一般報道メディアで、強引な折伏(勧誘活動)や言論出版妨害事件など数々の社会問題を引き起こしてきた創価学会や池田大作の「神話」が追認され権威化される。報道媒体のやることだろうか。
佐藤氏自身のスタンスだけではなく、これを掲載する『AERA』の問題もかなり大きい。
宗教研究とは必ずしも教義研究とは限らない。神学はもちろん教義研究の色合いが強いが、一方で宗教の社会的機能や位置づけなどを考察する宗教社会学のような学問もある。宗教社会学でも教義研究がないわけではないが、教義研究のみに立脚するわけではない。
その宗教社会学の分野では、オウム真理教による一連の事件の後、自らの研究の方法論について自省的な議論が起こった。参与観察や信者への聞き取り調査等を通じて、対象への共感を前提として宗教的リアリティを掘り下げようとする「内在的理解」という手法への批判だ。
研究対象を批判しないまでも、語られる内容についてある程度批判的に検証する姿勢を持たなければ、客観的な考察を生み出せないのではないか。大まかにまとめるなら、これが「内在的理解」への批判である。
直接には、「内在的理解」という言葉を用いてこの手法を提唱した島薗進氏(現・上智大学神学部特任教授)の議論への批判だった。
一方、オウム真理教については、山折哲雄氏、中沢新一氏、島田裕巳氏などが、オウムの実態についての批判や危惧の声を度外視して、教団や教祖が公にアナウンスする教義や主張のみに注目し、メディア上で好意的に評価した。「内在的理解」批判は、従来の宗教社会学の方法論も類似の危うさを孕んでいたことや、オウム真理教という前代未聞の宗教事件を前に十分な社会的役割を果たせなかったことに対する、いわば宗教社会学者たちの自戒でもあったと私は理解している。
これはバランスの問題だ。カルトにおける人権侵害や違法行為は、信者たちの宗教的なリアリティと切っても切り離せない。「内在的理解」のような視点は必要だ。共感に偏重し批判意識を軽視することが問題なのであり、それらを組み合わせるのであれば、むしろ有用な視点の1つである。
一方の佐藤氏の「内在的論理をつかむ」手法はどうだろう。「共感」という言葉こそ用いていないものの、教団の公式発表を追認する姿勢は、共感を前提とするのと変わらない。宗教社会学において批判された「内在的理解」の問題と似た構図だ。
オウム事件以降の宗教社会学における議論を踏まえると、佐藤氏の「方法論」には「いまさら?」の感が拭えない。
一方で、佐藤氏の「方法論」は宗教社会学における「内在的理解」よりも浅い。「内在的理解」は主に、参与観察や信者への聞き取り調査などを通じて研究者自身が宗教の枠内に飛び込み共感を目指す手法を指す。公式刊行物に依存した文献研究のことではない。
公式刊行物に依存した文献研究は、そもそも「内在的論理」ですらなく外形的な論理(建前)の研究と見る方が客観的だろう。
宗教とは実践者の集団だ。創価学会も、思想や理念を口先で語るだけのディベート集団ではない。公式に言語化された(ましてや全集などとしてまとめ直された)ものだけではなく、関係者のオンタイムでの行動や言動、それに従う信者たちの解釈や思い。これらを合わせて見ることで初めて、集団の実態と連動する「内在的論理」が把握できる。
教団が整えた公式刊行物である全集などを読むだけなら、池田氏はヒューマニストであり平和主義者であるように見えるかもしれない。イエスやパウロを連想する人がいるかどうかは知らないが。
しかし実際には、1960~70年代の言論出版妨害事件、70年の共産党・宮本顕治宅盗聴事件、強引な折伏(勧誘)や選挙における不正問題など、池田氏指導下の創価学会が批判されたり池田氏自身の関与が疑われたりした問題はいくつもある。いずれもヒューマニズムや平和主義とは相反する行動だ。
だからこそ、創価学会は池田氏ともども、これまで天下の嫌われ者だったのではないか。
連載第1回で佐藤氏が提示した「方法論」は、こうした歴史にまみれた池田氏と創価学会について、教団の公式刊行物以外に多数存在するソースを蔑ろにする宣言である。