東京は19世紀末まで、今日の規模に比べると非常にコンパクトな街であった。市街地は、西は山手線の内側から、東は深川の横十軒川まで、皇居を中心に半径5km程度の範囲に収まっており、江戸時代と大差がなかった。主な交通手段は徒歩で、その他、人力車、馬車に加えて、新橋から上野、浅草まで敷設された馬車鉄道(レール上の客車を馬が牽く鉄道)が利用された程度である。
ところが20世紀に入ると東京は急成長を始める。折しも日露戦争、第一次世界大戦を経て日本の商工業が大きく発展したことで、東京の都市圏と人口は急激に拡大。東京の人口は1900年の約200万人から、日露戦争後の1906年には250万人に達すると、1918年には300万人を超え、わずかな期間で1.5倍以上に増加した。
東京の拡大を後押ししたのが、1903年から営業を開始した路面電車であった。東京の路面電車は今では都電荒川線を残すのみとなったが、最盛期には200kmもの路線網を誇っていた。そのうち約100kmは明治末のわずか10年弱の間に建設されたものである。
路面電車の開業により人々の移動範囲は格段に広がったが、市内交通のほとんどを一手に担う存在となった結果、路面電車はいつも「待っても乗れない」と言われるほどの大混雑となり、新たな交通機関の整備が求められていた。道路上を走る路面電車は、安全上の観点から車体の大きさや運行速度に制約があり、輸送力に限界があったからだ。
当時の東京に他の交通機関がなかったわけではない。中央線や山手線には、既に5分~15分間隔で電車が走っていたし、1914年には東京駅から横浜駅(現在の桜木町駅)まで、京浜線(現在の京浜東北線)の運行がスタートしている。
しかし資金的、技術的な問題により、江戸時代から続く中心市街地を線路が貫くことができなかったため、各線路は都心でつながっておらず、市街地の周辺に東京、上野、御茶ノ水、両国橋(現在の両国)の4つのターミナル駅が分散する構造になっていた。
これらの各ターミナル駅を結ぶ「市街線」の建設は長い年月をかけて徐々に進められた。1919年に中央線が東京駅までつながると、1925年に上野~東京駅間、1932年に御茶ノ水~両国駅間が接続され、ようやく現在の路線網が完成している。
またこの頃、東京駅の丸の内側はまだ開発が進んでおらず、商業エリアは新橋から銀座、日本橋、神田、上野に至る現在の中央通りに沿って分布していたこともあり、市街地の移動は路面電車に頼らざるを得なかったのだ。
早川は路面電車の超満員状態を解消するとともに、人々をより快適に、かつ速く移動させるためには、東京に地下鉄を建設しなければならないと考えた。これをふまえて銀座線の路線図を見ると、最初の地下鉄が浅草~新橋間に建設された必然性が見えてくるだろう。
しかし、これでは浅草から新橋を経由して渋谷に向かう銀座線の半分しか取り上げていないことになる。銀座線とはそういうものだと思って見ていると気にならないかもしれないが、これまでの経緯を踏まえて考えると銀座線の路線図には違和感があるはずだ。
渋谷は今でこそ東京有数の繁華街であるが、昭和初期までは郊外の静かな住宅地にすぎなかった。なぜ銀座線は突如、新橋で進路を変えて渋谷に向かったのだろうか。実はこれ、東京地下鉄道が意図したものではなく、渋谷方面からの「横やり」の結果の産物であった。地下鉄は当初、新橋からそのまま南下し、芝、札の辻を経由して品川まで延伸する予定だったのである。
今では浅草から渋谷までひとつの路線である銀座線。前述のように浅草~新橋間は東京地下鉄道が建設したものだが、新橋~渋谷間は異なる鉄道会社「東京高速鉄道」が建設した路線であった。銀座線は新橋駅を境に2つの私鉄の路線がつながってできた路線だったのだ。
東京高速鉄道はなぜ横やりをいれてきたのか。その背景にある「東京の変化」とは何だったのか。それは次回、銀座線の兄弟路線とも言える「丸ノ内線」の歴史とあわせてみていきたい。
<文/枝久保達也>
鉄道ライター・都市交通史研究家。1982年、埼玉県生まれ。大手鉄道会社で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当した後、2017年に退職。鉄道記事の執筆と都市交通史の研究を中心に活動中。