「地下鉄の父」が日本最古の地下鉄・銀座線を敷設 <東京地下鉄100年史>

東京メトロ銀座線渋谷駅の新改札口 今から100年前の1920年、「東京地下鉄道株式会社」という鉄道事業者が誕生した。現在の東京メトロの正式名称「東京地下鉄株式会社」によく似た社名のこの会社は、1941年に「帝都高速度交通営団(営団地下鉄)」に、2004年に営団民営化により東京メトロに改組され現在に至る。つまり、東京メトロのルーツにあたる鉄道会社である。  東京地下鉄道は創立から7年後の1927年12月30日、日本初の地下鉄として現在の銀座線浅草~上野間(2.2km)を開業。その後、順次路線を延伸していき、1934年には新橋まで開通を果たす日本の地下鉄のパイオニアであった。  また1920年は、当時「市区改正条例」と呼ばれた都市計画の中に、地下鉄整備計画が初めて盛り込まれ、現在に続く東京の地下鉄整備がスタートした年でもある。つまり今年は東京の地下鉄整備が本格的に動き始めて100周年という節目の年なのである。  現在、東京メトロと都営地下鉄をあわせて13路線、総延長約300kmまで成長した地下鉄は、東京の街とともにどのように発展を遂げてきたのか。13路線の歴史とともに、東京の地下鉄100年の歴史を振り返ってみたい。

「地下鉄の父」早川徳次が1920年に東京地下鉄道を設立

 第1回はもちろん、日本最古の地下鉄、東京メトロ銀座線だ。  現在の銀座線、浅草~新橋間を建設した東京地下鉄道は、山梨県出身の実業家「早川徳次(はやかわのりつぐ)」によって創業された。早川は同郷出身の実業家で東武鉄道社長の根津嘉一郎に見込まれて、佐野鉄道(現在の東武佐野線)、高野登山鉄道(現在の南海高野線)の経営再建を任されると、これを見事立て直し、鉄道経営者としての第一歩を踏み出した。その後、1914年から1916年にかけて港湾と鉄道の関係を学ぶべく欧米を歴訪するが、そこで彼の心をつかんだのは、本来の目的とは異なる地下鉄であった。  これからの東京に必要な交通機関は地下鉄であると確信した早川は、自らその一大事業を担うことを決意する。大きな資産も特別な人脈もなかった早川は帰国後、自ら街頭に立って需要調査を行い、事業としての採算性があることを確認した。また当時、東京の地盤は軟弱であるため、地下にトンネルを建設することは技術的に不可能だと言われていたが、東京の地質に問題がないことも調べあげ、地下鉄の実現性と必要性を関係者や世論に訴えたのである。
早川徳次

「鉄道の父」早川徳次(『東京地下鉄道建設史.乾』より)

 早川は1917年に地下鉄建設の免許を申請。1919年に免許が下付されると、1920年に東京地下鉄道を創立。計画の具体化に向けた第一歩を踏み出した。これが、早川が「地下鉄の父」と呼ばれる所以である。

早川徳次以前の地下鉄構想

 日本の地下鉄史はこれまで、こうした早川の伝説的なエピソードとともに語られてきた。もちろん彼の尽力を抜きに地下鉄の誕生はあり得なかったとしても、ここで見逃してはならないのは、早川以前から日本人と地下鉄の関わりが存在しなかったわけではないということである。  例えば、初めて地下鉄に乗った日本人の記録として、幕末に幕府が派遣した遣欧使が開業直後のロンドン地下鉄に乗車したという報告書が残っているし、明治中期の東京の都市改造をめぐる議論においても、将来的な地下鉄建設の必要性に言及している。一般庶民はともかく一部の知識層には、欧米先進国で地下鉄と呼ばれる乗り物が実用化されていることと、その役割は古くから知られていた。  実際、1906年には福澤諭吉の娘婿である福澤桃介が東京の地下鉄整備を構想し、免許の申請を行ったが、技術的、資金的な裏付けに乏しい計画だったこともあり頓挫している。早川の功績は、日本で初めて地下鉄を「発見」したことではなく、東京の街が真に地下鉄を必要としたタイミングで、緻密な計画を練り上げ、地下鉄を構想から現実のものへと引き上げた点にあると言えるだろう。  銀座線の歴史、ひいては日本の地下鉄の歴史を辿るためには、なぜ100年前というタイミングで、東京に地下鉄が必要とされるようになったのかを確認しておかなければならない。
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商工業の発展と東京の拡大
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