権力の問題に絡んで、『ザ・ボーイズ』において重要なファクターとなっているのが、
ジェンダーの問題だ。「セブン」はホームランダーを中心に、ホモソーシャルな共同体として描かれている。男性ヒーローたちは、セクハラや性暴力、女遊びを当たり前のように行う。
興味深いのは、彼らのスポンサーたるヴォート社は、表向きはリベラルな価値観によって動いているということだ。だから、ヒーローによる性暴力が何らかの理由によって露顕した場合、制裁を下さざるをえないし、ヒーローもそれに従わざるをえない。
だが、ヴォート社は一方で、新人ヒロインであるスターライトに露出度の高いコスチュームを着せて男性ファンを増やそうとするなど、真に女性の人権を考えているわけではない。ヴォート社のフェミニズムは、
新自由主義であり、グローバリズム的な価値と結びついている。つまり、当事者からも批判を受けることが多い、
マイノリティ運動の資本主義的な濫用なのである。そしてそのグローバル資本の権力は、男性同盟的な権力(ヒーロー)と裏で手を組んでいる。
その矛盾の煽りを受けているのが、クイーン・メイヴである。彼女は、メディア向けには「強い女性」を演じているのだが、実際にハラスメントを行う男性ヒーローたちに対しては、せいぜい体よく「あしらう」ことができるのみで、具体的な対応はできない。そこには歴然とした「ガラスの天井」があるのだ。
『ザ・ボーイズ』の世界は、現実と同様、強い者が幅をきかせ、弱い者が虐げられる世界だ。人々の希望たる「正義のヒーロー」は、実は「正義」ではなかったのだ。
しかし、そのことから、この物語は「正義」なんて存在しないのだ、ということを訴えていると解釈してしまうのは早計だろう。たとえ「セブン」およびヴォート社の「正義」がインチキだったとしても、そのことによって「正義」そのものがインチキになるわけではないのだ。
おそらく明確な意図をもって、このドラマの作り手は、普遍的な「正義」そのものを攻撃することそれ自体は避けている。ヒーローの独善的な「正義」が描写されることはあるが、たとえばそれは宗教右派的な団体のそれであり、初めから怪しいものとして扱われている。新自由主義的なフェミニズムは風刺されていても、性暴力の告発それ自体が皮肉られているわけではない。その意味では極めてPCに即した作品であるといえるだろう。
この物語の中で、「正義」が賭けられている存在は二人いる。事実上の物語の主人公ヒューイ。彼はいくら復讐のためとはいえ、手段を選ばないやり方でヒーローを殺そうとする「ザ・ボーイズ」のリーダー、ブッチャーの方針に完全には納得していない。また、「セブン」の新人メンバー、スターライト。彼女は、信じていたヒーローたちの真の姿に傷つけられながらも、なお自分の信念を貫こうとする。
「正義」を完全に相対化してしまうのではなく、こうした登場人物たちに留保しておく。これが『ザ・ボーイズ』を単純なアンチ・ヒーローの物語とはみなせない理由となっている。
筆者は原作コミックを未読なので、この物語が今後どのような展開をするのかを知らない。だが、少なくともシーズン1は、現代社会の諸問題(国家権力、グローバル資本、ジェンダーなど)を堕落したヒーローを通して描いた秀逸な風刺劇であると考える。今のところ日本では過激な暴力や性描写、ブラック・ユーモアといった演出面に注目が集まっているが、ストーリーや世界観の構造についても、もっと語られてしかるべきだろう。
<文/北守(藤崎剛人)>