「難波」ラブホ街は、いかにして「ファッションストリート」になったのか<ラブホテルの地理学>

西心斎橋2丁目南部

多くの性風俗店が集まる西心斎橋2丁目南部。元々は旅館街だった。(筆者撮影)

 ラブホテル街はどこにできるのか――。  本連載では、「部屋数」や「料金」などの視点から、大阪市のラブホ街について考察してきた。今回は、「歴史」という切り口でラブホ街を見てみたい。舞台となるのは、大阪で、そして西日本最大のラブホ街《難波》である。性と歓楽の街は、どのような場所の系譜を経て現在に至ったのだろうか。

「花街」から「ラブホ街」へ

 日本にラブホ街ができ始めるのは第二次世界大戦後のことである。しかし、性の街としての《難波》の歴史は江戸時代にさかのぼる。近世の大坂には、「大坂四花街」と呼ばれる花街があった。その1つが、現在のミナミ周辺に存在した「南地(なんち)」である。南地は、さらに細かく宗右衛門町、櫓町、坂町、九郎衛門町、難波新地という5つの花街に分かれ、「南地五花街」と総称された。このうちの九郎衛門町難波新地が、現在ラブホテルが密集しているエリアと重なる。  1912年、難波新地で「ミナミの大火」と呼ばれる火事が起こった。この火事は約5000戸を焼き尽くし、これにより難波新地は移転することになった。この時の移転先が、現在でも「料理組合」の名目の下、風俗営業を続けている飛田新地である。「ミナミの大火」によって花街は消滅したが、その周辺には、「待合」や「席貸」といった店が残った。これは、芸娼妓を招いて遊興を行う施設である。これらは、昭和初期になると「連れ込み旅館」や「円宿」と呼ばれる貸間産業に転換し、現在のラブホテルの元となった。
ミナミの大火の焼失範囲

ミナミの大火の焼失範囲
『南区大火地図』(1912年,画像は大阪歴史博物館HPより)

 ちなみに、大坂四花街の残りの3つは新町、堀江、北新地である。新町と堀江は住宅や商店が並ぶ一般的な街に変わったが、北新地は現在でも歓楽街となっており、そのすぐ近くの太融寺町や兎我野町にはラブホテルが立ち並んでいる。このように、花街からラブホ街に転換した例は、東京や京都でも見られる(渋谷の円山町、祇園の安井金比羅宮周辺など)。

《難波》ラブホ街の成立期

 今回、ラブホ街の変遷をたどるにあたって使用するのは、敷地ひとつひとつの細かな用途を記した「住宅地図」である。大阪市では1959年から住宅地図が刊行されており、これを見ることでどこにラブホテルが建っていたかをおおよそ掴むことができる。ただし、この資料を使うにあたっては注意も必要である(以下画像の「注」参照)。なお、今回の分析の対象範囲は、大阪市中央区の西心斎橋2丁目、道頓堀2丁目、難波2丁目としている。これは、おおむね現在の《難波》で最も多くのラブホテルが立地するエリアと重なる。  …前書きが長くなってしまった。正確性を保証するためには仕方がない。ラブホテルでも、いきなり「本番」に入るのは無粋だということでご容赦いただきたい。  それでは、諸々の注意点を踏まえたうえで、以下の地図を見てみよう。これは、1959年の住宅地図に記載された「旅館」「ホテル」「トルコ」をマッピングしたものである。
1959年の《難波》

1959年の《難波》

 この時点で、すでに多くの「ホテル」があったようだ。特に多いのは、北側の区画で、その周辺には多くの「旅館」が並んでいる。この中には「連れ込み旅館」も多く含まれていると思われるが、確かなことは分からない。  1959年は、大阪でもラブホテルという営業形態が十分浸透した頃である。大阪では、1950年代初頭からラブホテルが出現し、1954年には都島区の「桜宮」に「銀橋ホテル」が開業する。全室にタイル風呂とテレビを備えたこのホテルは、戦後の住宅不足という時代背景もあって大成功をおさめ、第一次ラブホテルブームを巻き起こした。「大阪府ホテル協会」が設立されるのは1961年のことである。1959年の地図からは、従来の「連れ込み旅館」に挑戦状を叩きつけるように登場した、生き生きとしたラブホテルの姿が感じられる…ぜひ感じてほしい。
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70年代に席巻した「トルコ風呂」の衰退からさらなる変化へ
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