プランテーション農場での過酷な労働から「敵性外国人」認定まで。ハワイ日本人移民の歴史から日本人が学ぶべきこと
年末年始、ハワイに渡航する日本人旅行者は多いことだろう。しかし、19世紀末からハワイに渡った日本人移民の歴史については、あまり旅行者には知られていない。国立歴史民俗博物館の原山浩介准教授は「彼らの足跡をたどってみると、また新しいハワイの姿が見えてくるのではないでしょうか」と話す。
「ハワイは美しい海や山があり、グルメにショッピングと、日本人旅行者にとって非常に楽しいところです。その一方で、日本人移民たちのプランテーションでの労働や、太平洋戦争中の強制収容など苦難の歴史もありました。彼らはハワイの歴史・経済・文化に大きな影響を与えてきたのです」
「ハワイへの最初の集団的な日系移民は、1868年(明治元年)に日本を発った「元年者」(がんねんもの)と呼ばれる、約150名の人々でした。19世紀のハワイでは、白人が持ち込んだ疾病などで先住ハワイ人の人口が減少、主力産業のサトウキビ農園での労働者が必要とされていたのです」
多くの元年者の行き先は、ハワイ各島のサトウキビプランテーションだった。
「長時間にわたる炎天下での重労働に加えて、監督者に鞭で打たれることもありました。しかしそれ以上に『元年者』の場合、そもそも農業労働の経験がない人も多くおり、プランテーション労働に適応できない人がずいぶんといたようです」
その後、1885年から、ハワイ王国と明治政府の取り決めによる「官約移民」の時代が始まる。しかしそれはハワイ王国の滅亡(1893年)とともに終了し、その後は民間の移民会社による「私約移民」の時代となる。さらに、アメリカ合衆国がハワイを併合し(1898年)、1900年からはアメリカの法律がハワイに適用されることになる。
「その後は、プランテーションでの労働契約を前提としない『自由移民』の時代になります。この頃になると、日本語新聞がいくつか創刊されており、また契約期間を終えてプランテーションを離れる日本人も増えてきました。ハワイ島のコナでは、小規模なコナ・コーヒー農園を経営する日本人も出てきました。今でも多くの日系人がコナ・コーヒーの生産を担っています」
1930年の時点で、ハワイ全体の日本人・日系人は全人口の37.9%(13万9631人)を占めるようになった。
「ホノルルのアアラ地区やモイリリ地区には日本人街ができ、多くの日本人が経営する商店が存在していました。飲食店や生活関連の商店のほか、出雲大社や映画館なども作られていました」
サトウキビプランテーションでの過酷な労働
ハワイ全体の人口の37.9%を占めるようになった日本人・日系人
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