――社会から疎外された人を描くという意味ではトッド・フィリップス監督の「ジョーカー」にも通ずるものを感じました。そして無実の罪を否定しない光雄の存在はキリスト的だとも思いました。
竹内:「ジョーカー」は社会から排除されて殺人に走ったけれども、光雄は贖罪の行為に出ます。確かに光雄には罪はありません。でも、大好きな姪っ子2人を遊園地に連れて行き、大人の自分がいながらダウン症の可愛い姪っ子を失ってしまったのは、監督責任の問題になりますよね。
光雄は普通の人が感じられない心の痛みを感じてしまい精神を病んで病院に入った過去があります。そんな光雄ならその責任が自分にあると思うのではないかと。そしてそういう心持ちの人間があの場で何をするかと言ったら、「自分はやっていない」と主張するのではなく、贖罪の行為しかないのではないかと考えました。
何をしても一希は戻ってこない。できることは、一希を弔うことと苦しみを抱えた知恵を救うことしかないと思うのではないでしょうか。
――そうですね。
竹内:一番苦しいのは妹の一希を落として死なせて、嘘までついてしまった知恵ですよね。大好きな姪っ子の知恵がこれからどう生きていくか、彼女をどう助けるかということを考えなくてはいけない。また彼女の親である裕太も知恵が妹を落として死なせてしまったということを背負って生きて行かなくてはいけない。そうした各々が抱えた苦悩を、極力説明を排除して表現したかったのです。
*竹内洋介監督の半生や制作の裏話、日本映画を巡る状況については、近日公開される続編をお待ちください。
◆新連載・映画を通して「社会」を切り取る1
<取材・文/熊野雅恵>
くまのまさえ ライター、クリエイターズサポート行政書士法務事務所・代表行政書士。早稲田大学法学部卒業。行政書士としてクリエイターや起業家のサポートをする傍ら、自主映画の宣伝や書籍の企画にも関わる。