山や森が切り開かれ、どんどん墓がつくられていく。これらの墓は、いつまで維持できるのだろうか
人は二度死ぬという。一度目はその人が死んだとき、二度目はその人を覚えている人が死んだとき。ということは、思い出してくれることが墓参り以上の弔いだ。思い出してくれる人がいなくなって、誰も俺の存在を知らないのに墓の世話をさせるなんて迷惑なだけだ。
本来、死の弔いは金をかけずともできたこと。すべて商業主義・消費主義に乗っ取られただけだ。日本消費者協会の調べによると、葬儀にかかる金は全国平均で195万円。これではお金がある人しか「ちゃんとした」葬儀はできない。今後も格差が解消されないのなら、逝った人を送るのがどんどん厳しくなる。
しかし落胆しないでほしい。通夜、告別式、読経を省略して、火葬するだけなら十数万でできる。生活保護受給者なら自治体が最大で20万円まで補助する法律になっているので、負担はない。逝く側も送る側も、ちゃんとした葬儀なんてそもそもしなくていいじゃないか。
政治と経済の愚行で格差が広がり、墓を買うとどころか、親や先祖の墓を維持できない人たちが増えている。墓や霊園など、何百年後にも存在しているだろうか。
歴史の遺構物には何千年というものだってあるのだから、残っているものもあるだろう。しかしほとんどは、天変地異や環境破壊、戦争や開発などで失われることもあるだろうし、経済的に維持ができずに撤去することもあるだろう。おそらく、そのほとんどが残らない。いずれ結局は自然に還るのだ。
「墓に入りたい」「墓を大切にしたい」という人もいて当然だし、素晴らしいことだ。しかし、「生まれた場所で育ち、生き、死んでゆく」という時代は、ローカルに一生を生きる以外は先細りだ。遠い場所に墓があっては、時間的にも経済的にも墓を守ることは難しくなる。
一方で、都心には墓を置く場所がないゆえに、郊外の山を削って大霊園を作る。それは環境破壊で、自然循環を壊し、麓に土砂災害を誘発することでもある。遠くの墓を住まいの近くに移すのも良いが、それにも相当の金がかかる。ゆえに、墓じまいも増えているし、無縁墓地も増えている。
そんな矛盾に満ちた時代にあって、現世を充実して生き切るために「墓は要らない」「墓には入りたくない」と思う人は増え、次の時代の価値観になっていくに違いない。
そして、俺ら貧乏人にとっては、そう考えたほうが都合がいい。
【たまTSUKI物語 第13回】
<文/髙坂勝>
1970年生まれ。30歳で大手企業を退社、1人で営む小さなオーガニックバーを開店。今年3月に閉店し、現在は千葉県匝瑳市で「脱会社・脱消費・脱東京」をテーマに、さまざまな試みを行っている。著書に『
次の時代を、先に生きる~まだ成長しなければ、ダメだと思っている君へ』(ワニブックス)など
30歳で脱サラ。国内国外をさすらったのち、池袋の片隅で1人営むOrganic Bar
「たまにはTSUKIでも眺めましょ」(通称:たまTSUKI) を週4営業、世間からは「退職者量産Bar」と呼ばれる。休みの日には千葉県匝瑳市で NPO
「SOSA PROJECT」を創設して米作りや移住斡旋など地域おこしに取り組む。Barはオリンピックを前に15年目に「卒」業。現在は匝瑳市から「ナリワイ」「半農半X」「脱会社・脱消費・脱東京」「脱・経済成長」をテーマに活動する。(株)Re代表、関東学院経済学部非常勤講師、著書に
『次の時代を先に生きる』『減速して自由に生きる』(ともにちくま文庫)など。