歴史の中では、墓に入ることが“当たり前”ではなかった
イラスト/髙坂勝
墓も同じだ。歴史の中で、すべての人が墓に入ってきたわけではない。よく考えればわかることだ。同じ東アジアでも、火葬して川や海に流していた例もあるし、屍をそのまま川に流す水葬とか、木々の上で風化させる風葬もある。それを不衛生とか野蛮とか可哀想と思うだろうか? 生態系の循環や食物連鎖で考えると、むしろ理にかなっている。
日本では、墓に石塔を立てるようになったのは江戸時代以降。それ以前は各地によって違ったが、土葬が中心で、火葬の地域でも石塔を立てなかった。そのため墓参りの習慣もなかった。沖縄の一部では、海の岩場や洞窟で野にさらす「風葬」もあった。墓に入ることは、伝統でも、当たり前でも、常識でもない。
田畑の後背地にある高台に墓を見かけることがよくある。現代では土葬ではないのだろうが、本来の自然の循環からすれば、合理的な場所に埋葬されている。違う生き物たちの肥やしとなって、自らの田畑を見渡せる永遠の循環に身を委ねるなんて、素敵じゃないか。
俺も、死んだら自分の田んぼに埋めてほしいと思うことがあるから、納得がゆく。だが実際は、今の日本ではそうもいかない。だから焼いて骨を海に撒いてもらえばいいし、生前にその費用だけを誰かに託して死ねたら最高だ。
人の体は自然の中の循環物だから、すべてを自然に戻すのが本当は当たり前のこと。土に触れる暮らしをしていると、不自然と自然の見分けがつくようになる。裏返せば、自然の摂理から離れるほど人は不自然な方向に向かう。
江戸期に墓の概念が生まれたのは、一部の人々が兵農分離で土から離れたから。不自然を不自然と感じなくなる過程で形成されたであろうことが想像できる。権力者や富裕者が大きな墓に入りたがるのも、土や自然の摂理から離れた、不自然な愚かさに気づかなくなるからだろう。
そんなこんなで「墓はいらない」ということを自分のブログに書いたら、大手企業を辞めて京都府綾部市に移住して田畑を耕している、平田佳宏さんが次のような反応をしてくださった。
「亡骸はそのまま野原に晒して鳥や獣の餌にして、虫や微生物の手で土に還してもらいたい。そうして自然の循環の中に入りたい。子や孫やそれに続く世代に墓の守りをさせたくない。
人間以外の生き物は墓など作ることはないが、だからといって成仏できないなんてありえない。これまで何億年と生命は弔われることなく自然に還って循環してきたのだ。
昔は人が亡くなると川の上流の方に土葬した。そうすると下流の田畑や森がよく育ったのだと聞いた。きちんと土に還るというのはそういうことだ。
人間だけが自然の循環の外にいていいわけがない。命を奪って生きてきたのなら、死んだのちは我が身をほかの生き物のために提供することが務めであり、自然の摂理だと思う」