眼の前の「モノ」を大切にするところから、社会は変えられる

意思があるとしか思えない、健気なモノたち

のれん

タマツキの雰囲気を醸してくれた立役者の「のれん」たちは、破れても何度も直し、14年間活躍してくれた

 レジスターも電子レンジも、給湯器も冷蔵庫も、詳しい人に聞く限り耐用年数を充分に超えていた。いつ壊れてもおかしくない状況だった。なのに14年ずっと動いてくれたのだ。俺がこの店を終わるまで老体にムチを打って頑張って動いてくれていたとしか思えない。  時折、調子が悪くなって「もうオイラ、ダメだ!」という気配が何度もあったが、それでも、動いてきてくれてきた。なんて健気(けなげ)なんだろう。特に、レジスターと電子レンジの、閉業に合わせた逝き方には、あっぱれ!  彼らに意思があるとしか思えない。魂があるとしか思えない。きっとあるのだろうと信じる。だから、サヨナラする時は感謝の気持ちを込め、掃除をして送り出した。丁寧に処理してくれる知人の業者に、ちゃんと料金を払って引き取ってもらった。  皆さんも、車やパソコンや日常を共にするもので、同じような経験をしているはずだ。俺も、店の機器だけでなく、そういう経験をたくさんしてきた。買い換えようと思ったら壊れるとか、逆に調子よくなるとか。新しい商品が届いた瞬間、古いものが動かなくなるとか。車が、自分の気持ちを反映するとか。  だからこそ、モノを長く大切に使うことが大切だ。モノに感謝し、日々折々その気持ちをモノに伝えることも大事だ。手放す時、最大の礼を尽くしてサヨナラすることも大事だ。俺はそう思うし、そうしてきた。

使い捨てが蔓延した社会で、ヒトは逆襲される

裏紙

裏紙を使ってオーダー伝票代わりに。「たまTSUKI」では一切、紙を買ったことがない

 すべてのモノには魂がある。すべてのものに神が宿る。それが真実かはわからない。しかし、そう思うことによって、モノとの交流が始まり、友となり、感謝の念が生まれ、モノは長生きし、持ち主の心が豊かになる。  そしてもう一つ、いちばん重要なこと。人類が生き残って行くための持続可能な環境をかろうじてでも保持して行くためにも、「すべてのモノには魂がある」という精神性を俺たちは取り戻さなければいけないなのではないか。  モノを大切にすることの対極は、使い捨て文化だ。ビニール袋、ペットボトル、缶、割り箸、俺たちはそれらが当たり前と思うようになってしまった。必ずしっぺ返しを食らう。海に捨てられるプラスチック類で海洋生物が危機に瀕するだけでなく、食物連鎖の帰結としてマイクロプラスチックが人間の体にも蓄積されていることが明らかになってきた。温暖化の脅威はその最たるものだろう。今年の夏の異常な暑さや災害、世界中で起こった異常気象を鑑みれば、明らかだ。  電気だって使い捨て。必要ない電気が使われ続ける産業構造。分かりやすいところでは、夜も煌々と光る広告ネオンも一つの例だ。でっかいネオン広告を見て「あ、買いたい」とか「企業イメージ、いいね」と思う人がどれだけいるのだろうか。  そのために未来世代に残さねばならない石油や石炭を使い、温暖化を進め、時には危険な原発で発電せねばならない要素になり、何の意味があるのか。新幹線と平行に走らせるリニア新幹線もそうだ。自然を壊し、地中深く深く長い長いトンネルや地中の駅などを作り、新幹線の3倍の電気を要するので浜岡原発が必要だとの名目になる。リニアで電気は使い捨てにされ、今ある新幹線も使い捨てされるベクトルになる。  ヒトも使い捨てにされる時代になった。派遣労働、請負労働、それだけでなく、外国人労働者の受け入れも強引に決まった。人件費を下げたい経済界の要請からであり、利益効率のためで、そこには人権は考慮されない。日本人の賃金も値下げ競争にさらされる。
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「経済効果」の名のもとに、押しつけられる負担
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