死に瀕する民主主義。一人ひとりが民主主義を守る自覚を ~『民主主義の死に方―二極化する政治が招く独裁への道―』書評
人は死の直前に、それまでの人生を振り返るという。まるで映画のように脳内に再生されるらしい。昔は「走馬灯」と呼んだものだが、もはや「走馬灯」という言葉は死語になってしまい、ほとんどの読者には通じないだろう。
近年、我々の社会、特に民主主義を振り返る書籍や論考を多く見るようになった。死に瀕した我々の社会が自らの来歴を振り返るように思えてならない。
ただし、それは甘い思い出ではない。冷たく厳しい現実の見直しだ。
ジェイソン・ブレナン、ブライアン・キャプランなどの研究者によって指摘されているのは、ほとんどの有権者は理性的でもなければ公正でもないということだ。さらに言えば、合理的な投票決定のために必要な知識も持っていない。
有権者の投票によって代議士を選出したり、重要な物事を決したりするのは民主主義における決定プロセスである。その投票行動が理性的でも公正でもなく知識も欠落していれば、当然その結果は悲惨なものとなる。社会にフェイクニュースが流布し、人々は正しいものではなく信じたいものを信じ、ポピュリズムに堕す。それが現在我々の社会で起きていることだ。
この記事を読んでらっしゃる方々も経験的にご存じだろう、選挙の前に合理的な判断のために必要な情報を収集し、理解することがどれほど面倒なことか。もちろんそこにはファクトチェックも含まれなければならない。昨今の政治家は平気で事実に反することを発言するし、批判する者も同様だからだ。正しく理解するためには候補者の発言や批判者の発言に含まれる制度、歴史的事実、統計、思想、法律なども知らなければならず、そのうえ複数の情報源から正確であることを確認する必要がある。とはいえ候補者が掲げている社会的問題ひとつとっても充分に理解するのはかなりの時間と労力を必要とするのが現実だ。
しかし我々には投票以外にもやることがある。仕事、家庭、趣味……。そのうえ投票のために労力をかけても目に見えて得られるものはわずかだ(短期的、直接的という意味で)。ほとんどの人は努力を放棄し、上っ面の情報だけ、あるいは候補者のイメージだけで投票するだろう。ここまで考える人はまだましで、多くの人は最初から努力を放棄して投票を行う。あるいは投票すら放棄する。
民主主義の基盤のひとつというべき投票の現実が、理想とする姿と異なるのは有権者のせいだろうか? いや違う。そもそも現代において、多数の有権者にそんなことを求めるのが非現実的な仮定なのだ。民主主義の黎明期ならいざ知らず、情報が過剰にあふれる現代社会を生きる我々にとって、理想的な投票行動はとんでもなくハードルの高いものとなっている。
もしかすると自分は違うという方がいるかもしれない。しかし大多数の人はそうだ。我々が民主主義的なプロセスで選んだ代表者たちの言動を見ればそれがよくわかる。文書を改竄し、ウソをつき、議論を割愛して法案を通す。彼らは我々の鏡なのだ。
まっとうな民主主義は面倒くさい
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