元サッカー日本代表・戸田和幸「今だから話せる2002年W杯秘話」

競争の厳しさを思い知ったイングランド時代

 戸田が強調したのは、「自分が一番生きている実感を得られたのは、2002年ではなく、その後苦労したイングランド時代」だったということだった。 「もともとはサンダーランドからオファーが届き練習参加、『完全移籍で』とトントン拍子で話は進みましたが多くの移籍金を要求した清水との間で移籍交渉が難航してしまったんです。交渉は全く進まず、このままでは帰国だという時に、清水時代お世話になったスティーヴ・ぺリマン監督のおかげでイングランド移籍が実現し、トッテナム・ホットスパーと契約しました。  当初はグレン・ホドル監督の意向で“まずはイングランドに慣れなさい。そのためには英語を学びながら下のカテゴリーで実戦経験を積みなさい”ということでずっとリザーブの若い選手たちと試合をやってました。8試合ほどベンチが続いた後、ホワイトハートレーンで行われたマンチェスター・シティ戦でデビューをしました。  その後マンチェスター・ユナイテッドとの試合にも先発で出場しましたが、そのときのマンUのスタメンが、キャロル、ブラウン、オシェイ、ファーディナンド、シルベストレ、ベッカム、キーン、スコールズ、ギグス、ファン・ニステルローイ、スールシャール。まさに夢の舞台でした。  その試合ではマンマークでスコールズに付く役割を与えられたものの終盤一瞬マークを外したところで失点、世界トップの凄さを肌で知る事になりました。結局、最初のハーフシーズンは4試合の出場、手応えよりはレベルの高さを突き付けられる形となりました。  次のプレシーズンでは努力の甲斐あってか慣れてきたこともあり、ずっとレギュラーで試合に出ていましたが開幕直前に深刻な肉離れを起こしてしまいました。復帰まで二か月かかったのですが、その頃には監督が交代していて、僕の居場所はなくなってしまいました。チャンスというものは一瞬、そのチャンスをものに出来なかったら二度と訪れる事はない現実と競争の厳しさを知りました。  その後はオランダに移籍してハーフシーズン、ハーフナー・マイクも所属したADOでプレーし降格間違いなしの状況にあったチームを残留させる事が出来ました。外国人の最低年俸の件もあり、ADOには残れずより大きなクラブへの移籍も実現出来なかったので日本に戻りました。もしプレーするチャンスがあったならずっと欧州にいたかった。  残念ながら力及ばずで志半ばにして帰国することになってしまいましたが、あのときの経験、悔しさが今日までの自分の原動力になっていることは間違いありませんね」  前回触れた通り、その後戸田は韓国とシンガポールにも赴いている。そのとき戸田は何を見たのか、その後の人生および指導者生活にどのような影響を及ぼしているのか、そのあたりを次回掘り下げていきたい。 【タカ大丸】  ジャーナリスト、TVリポーター、英語同時通訳・スペイン語通訳者。ニューヨーク州立大学ポツダム校とテル・アヴィヴ大学で政治学を専攻。’10年10月のチリ鉱山落盤事故作業員救出の際にはスペイン語通訳として民放各局から依頼が殺到。2015年3月発売の『ジョコビッチの生まれ変わる食事』は15万部を突破し、現在新装版が発売。最新の訳書に「ナダル・ノート すべては訓練次第」(東邦出版)。10月に初の単著『貧困脱出マニュアル』(飛鳥新社)を上梓。 雑誌「月刊VOICE」「プレジデント」などで執筆するほか、テレビ朝日「たけしのTVタックル」「たけしの超常現象Xファイル」TBS「水曜日のダウンタウン」などテレビ出演も多数。
 ジャーナリスト、TVリポーター、英語同時通訳・スペイン語通訳者。ニューヨーク州立大学ポツダム校とテル・アヴィヴ大学で政治学を専攻。’10年10月のチリ鉱山落盤事故作業員救出の際にはスペイン語通訳として民放各局から依頼が殺到。2015年3月発売の『ジョコビッチの生まれ変わる食事』は15万部を突破し、現在新装版が発売。最新の訳書に「ナダル・ノート すべては訓練次第」(東邦出版)。10月に初の単著『貧困脱出マニュアル』(飛鳥新社)を上梓。 雑誌「月刊VOICE」「プレジデント」などで執筆するほか、テレビ朝日「たけしのTVタックル」「たけしの超常現象Xファイル」TBS「水曜日のダウンタウン」などテレビ出演も多数。
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