武装僧侶が戦国武将を動かしていた!?「本願寺文書」から読み解く家康の野望とは?

三人の天下人と本願寺僧侶の数奇な運命

 織田信長とは10年にわたって戦いを繰り広げたが、この時、後に東西分裂の要因となったのが第11世宗主の顕如と嫡男・教如の対立だった。顕如は最終的に信長の要求を受け入れ石山本願寺を退去するが、教如は熱狂的な門徒衆とともに石山に踏みとどまり徹底抗戦した。  また、豊臣秀吉が天下掌握に名乗りを上げると、実は本願寺との関係は異常なほど緊密になる。信長の時に手放した堺御坊の跡地と寺領の返還を秀吉に求め、秀吉はこれに好意的に応じた。また賤ケ岳の戦いで柴田勝家と戦った際には、本願寺の命を受けた近江や加賀の門徒が秀吉軍に全面的な協力をしていたのだ。  そして、本願寺が東西に分裂した原因について、大きく関わっていたのが、徳川家康、その人である。  本願寺文書や当時の史料で明らかになったところによれば、当時本願寺教団が抱えていた深刻な内部対立と、徳川家康との緊迫した関係があったという。  それは、宗主・顕如の急死によって瓦解する。宗主・顕如の急死後、宗主の座は嫡男の教如が継ぐが、母の如春は三男の准如を後継者にしようと画策し、結果、教如はその座を追われることになったのだ。  こうした内紛劇は徳川家康の時代になっても続いていく。そして家康は教如を本願寺宗主に復帰させようとしていたことが明らかにされる。しかし教如はこれを辞退し、東本願寺を独立させたという。この時の教如の本音はどういうものだったのか。  東西分裂から400年。東と西に分かれた本願寺を訪れつつ、分裂に翻弄された教如に思いを馳せてみるのもいいかもしれない。 <文/HBO編集部 photo by Resto1578 via Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)>
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本願寺はなぜ東西に分裂したのか

戦国武将とその時代を動かしていたのは、
浄土真宗の僧侶たちだった!?
大谷派VS.本願寺派 東西分裂の真相を探る!