赤松小三郎(写真/赤松小三郎顕彰会)
信州上田藩に赤松小三郎という若くて無名で貧乏なサムライがいた。彼が数え36歳の1867(慶応3)年5月、日本史上初めて全国民に参政権を与える議会開設や法の下の平等など、いまの民主主義体制につながる憲法構想を提案した『御改正口上書』を執筆している。
議政局(議会)のうち下局(衆議院)の参政権については、身分や財産・性別などによる制限がまったく書かれていない。
議政局(議会)は天皇より権限が強く、国権の最高機関という位置づけだ。国軍3万1000人以外にも民兵制度を創設。福井藩主・松平春嶽宛のバージョンでは、普段はさまざまな職業についている「国中之男女」が定期的に地元で軍事訓練を実施し、いざというときに備える。
女子も軍事訓練に参加することをわざわざ書いていることから、男女に参政権を付与する考えだったと推察できる。当時最先進国のイギリスでも、男子普通選挙すら実現していなかった。世界中のどの国も実現していなかった民主国家構想を赤松小三郎は堂々と公表していたのだ。
赤松の構想は、翌月に結ばれた薩土盟約(薩摩と土佐の盟約)に影響を与えた可能性が高い。なお、坂本龍馬の構想「船中八策」がその基になったと長年信じられてきたが、文書そのものが存在せず写本もなく信ぴょう性が低い。
薩土盟約のポイントは大政奉還、下院議員は全国民を対象とし選挙で選ぶこと。さらには、朝廷の制度法則も、大昔の律令時代にもどるのではなく改革して、地球上のどの国と比べても恥じることのない憲法を制定する旨が書かれている。
赤松の立憲主義構想も薩土盟約も現在の日本国憲法体制に通じる。しかも盟約合意の席には、薩摩からは家老・小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通、土佐からは後藤象二郎ら4名。仲介者として坂本竜馬、中岡慎太郎も出席。そうそうたるメンバーが承認した議会制民主主義の国家構想だった。
さらにいくつもの大藩が支持し、あと少しで武力によらず“平和維新”が実現し、庶民にいたるまで選挙に参加する議会制民主主義の国が誕生する可能性が高まっていた。
西郷隆盛が“転向”、赤松の暗殺で民主国家構想が闇に葬られた!?
東京・上野公園の西郷隆盛像
ところが、日本支配を狙うイギリスをバックに西郷隆盛が“転向”した。彼は薩摩長州同盟の強化へ舵を切り、武力とテロで権力奪取へなだれ込む。
手始めに、史上初の議会制民主主義構想を建白した赤松小三郎を暗殺(1867年9月)。実行犯は、西郷の腹心の部下・中村半次郎と田代五郎左衛門。西郷隆盛と大久保利通が背後にいたことは、ほぼ間違いない。吉田松陰門下の品川弥二郎が深く関与していたことも彼の日記からわかっている。
赤松暗殺の4日後、西郷は土佐の後藤象二郎に薩土盟約の一方的破棄を宣告した。その数か月後に戊辰戦争が始まり日本は内戦に突入。勝利した薩長を中心とする勢力がつくり上げたのが明治国家であり、まもなく長州が実権を握る。
長州では、過激な尊王攘夷派の吉田松陰を信奉する弟子たちが実権を握るようになって以降、外国人襲撃や外国船への発砲などテロ活動を活発化させていった。
1864年の禁門の変では、京都御所に向けて発砲し、門を打ち破って御所内に乱入。敗走時に火を放って首都を焼け野原にした。
皇居に向かって発砲し、敷地内に武装勢力が突入したのは、長い日本の歴史の中で長州だけだろう。
その長州が、天皇を現人神とあがめる国家神道に基づく靖国神社をつくり、これを基盤に大日本帝国を築き上げた。