カルトとはその教義や戒律の内容や過激さのみで定義されるものではない。イワシの頭を拝めば幸せになると信じようと、壺を買えば先祖供養になると信じようと、あるいは「こんな世界、一回地獄の業火に焼かれてしまうべきだ」と主張しそれを信じようと、それ自体は教えを説くものとそれを信じるものの自由である。
カルトのカルトたる所以は、こうした教義にではなく、その勧誘手法にある。
カルト教団は決まって「手相の勉強をしませんか」「自己啓発のためにこの本を読みませんか」「自然保護活動に参加しませんか」と、
自分たちの正体を秘匿して勧誘活動を行う。そして、勧誘された者の周りに次第に濃厚な人間関係や金品の貸し借りなど「抜け出せない雰囲気」を構築していく。教団の正体が明かされるのは勧誘された者がもう完全に抜け出せない状態に陥ってからだ。
今回、日本会議が各省庁に対して行った行為は、構造としてはこのカルトの手口と全く同じといえよう。各省庁への後援申請時に自分の正体を明かさず後援決定後にぬけしゃーしゃーと「日本会議地方議員連盟設立10周年企画」と打ち出す行為は、「自然保護活動に参加しませんか?」と勧誘した者に壺や墓石のたぐいを売りつける行為と何が違うというのか。
カルトの勧誘に乗ぜられた者は、いずれ勧誘の当初の謳い文句が虚偽だったことに気付く。宗教の勧誘であれば応じなかったのに、この教団の勧誘だと知っていれば話を聞くことさえなかったのにと後悔しても、もう抜け出せない。勧誘された者の周囲には、抜き差しならない人間関係や金銭や物品の貸し借り、時には住居の提供なども含めて、「小さな社会」ともいうべき濃密な空間が構築されてしまっている。そこに一度陥った者が抜け出すのは、容易ならざることだ。そしてその「小さな社会」は、その社会の中でしか通用しない論理と倫理観で動きつづけ、社会との齟齬が蓄積していく。そしてその種の小さな社会は、いずれ破綻し大きな破局を迎える。
日本会議の問題点はまさにここにある。
今回の「第3回アジア地方議員フォーラム日本大会」で明らかになった日本会議の
「正体隠し勧誘」はこれまで彼らが多用してきた手法の一形態でしかない。彼らは常にこの手法を使う。
憲法改正運動で日本会議の名前を出さず
「美しい日本の憲法をつくる国民の会」と名乗るのはその最たる事例だろう。そしてその日本会議そのものが、「生長の家」原理主義者で構成される極右団体・
日本青年協議会によって運営されているものだ。警察公安がカルト宗教や過激派を監視するときに使う用語を用いれば、「第3回アジア地方議員フォーラム日本大会」も「美しい日本の憲法をつくる国民の会」もそして日本会議そのものも、
日本青年協議会の「フロントサークル」にすぎない。ここには、二重三重の「正体隠し勧誘」の構造が存在している。
そしてこの構造が及ぶのは、なにもメディアが取り上げる今回のようなイベント事や「保守系市民団体」の活動にとどまらない。猖獗を極める「保守論壇」なるものそのものが、この二重三重の「正体隠し勧誘」の構造に支えられているではないか。さまざまな論者が指摘する社会の右傾化、論壇の右傾化とは、畢竟、日本青年協議会およびその周辺の人々の「小さな社会」が日本の社会全体を蝕んでいく姿にほかならないのだ。
50年前、新興宗教の学生運動としてスタートした日本青年協議会は、「正体隠し勧誘」を駆使して、その「小さな社会」を拡大し、平然と中央省庁を「正体隠し勧誘」で騙すまでになった。彼らの「小さな社会」はここ20年で日本の社会の随所に進出し、言論、政治、市民運動などさまざまな分野で中核となり、いまや政権を支える一翼を担うまでに成長した。
人民寺院、オウム真理教などなど、「小さな社会」が外部の社会との軋轢を蓄積し破滅的な最期を迎えた事例は枚挙にいとまがない。日本青年協議会とその周辺の人々が構築した「小さな社会」が、どんな破滅を迎えるか、彼らの「小さな社会」が中央省庁を騙すまでに大きくなったいま、想像するに恐ろしいとしか言いようがあるまい。
<取材・文/菅野完>
すがのたもつ●本サイトの連載、「草の根保守の蠢動」をまとめた新書『
日本会議の研究』(扶桑社新書)は第一回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞読者賞に選ばれるなど世間を揺るがせた。現在、週刊SPA!にて巻頭コラム「なんでこんなにアホなのか?」好評連載中。また、メルマガ「菅野完リポート」(
https://sugano.shop)も、目下どこよりも早く森友問題などを解説するメディアとして注目されている。
すがのたもつ●本サイトの連載、「草の根保守の蠢動」をまとめた新書『
日本会議の研究』(扶桑社新書)は第一回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞読者賞に選ばれるなど世間を揺るがせた。メルマガ「菅野完リポート」や月刊誌「ゲゼルシャフト」(
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