タイ南部にいた無国籍女性は両親がミャンマー人であることが証明され、戸籍登録のない住民証を所持していた。こういった書類も存在する
先日タイで発生したサッカー少年ら13人の水没洞窟内の行方不明事件は、タイ軍と海外からのダイバー合同チームの尽力で全員無事救出され、事件は幕を閉じた。その後、少年らは無事に病院で体力も回復し、タイでも徐々に少年らのニュースは少なくなりつつある。そんな中、一部の報道では少年3人とコーチの4人が無国籍の状態であることが発覚し、タイ政府も国籍付与に動き出しているという。
タイにおいて「無国籍」という状態は決して珍しい話ではないため、これに関してタイ国内ではあまり大きな報道はない。せいぜい同情論があるくらいだ。日本人の中には「なぜそんなことが起こるのか」と不思議に思っている人もいることだろう。この無国籍者の問題は、昔から続くタイの社会問題のひとつなのである。
まず、洞窟事故の場所やサッカー少年らの地元がタイ北部であることに注目したい。タイの無国籍者問題は全土にあるが、傾向としてはタイ北部に多い。タイ国内の無国籍者は各報道で数字が違っている。48万人とする記事もあれば、50万人、65万人というのもあった。タイ政府も概ね50万人前後ということくらいしかわかっていないはずだ。なぜなら、タイ政府内に数字を表す資料や書類は一切ない。当然である。無国籍者はどこにも登記されていないために無国籍となっているので、推測するしかない。その中では地理的条件や歴史的背景によって、タイ北部に無国籍者が多くなる傾向にある。
タイ北部ターク県メーソートとミャンマーの国境。対岸がミャンマー領土
タイはラオス、カンボジア、ミャンマー、マレーシアに囲まれる。タイは多民族国家で、国境付近は文化や言語が入り乱れている状態だ。マレーシアは比較的裕福な国でイスラム系住民が多いことからタイ南部だけの往来になるが、ほかの3か国はタイに出稼ぎに来たい人が多く、不法入国を含めて大量の人々が流れ込む。北部は特にミャンマーとラオスが近いことで、バンコクとは違った人種の坩堝になる。
ターク県のタイ政府が管理するミャンマー人難民キャンプ。難民の流入もタイは多い
タイは国籍に関しては原則的に「出生地主義」を採る。父母のタイ国籍の有無に関わらず、タイ国内で出生した者にタイ国籍を取得する権利があるのだ。タイ国外で出生しても、父母のいずれかがタイ国籍保有者であればタイ国籍を持つことができる。
しかし、これは1992年以降のことで、それ以前のタイ国籍法は「父系血統主義」だった。父方が外国人の場合、タイ国籍を持つことができなかった。これはタイが今の「タイ王国」が成立する以前から移民流入が多く、100年も前であれば華僑、ベトナム戦争のころは共産圏からの移民が大量にタイに入ってきたため、タイ政府も時代に合わせて国籍法を変えていくしかなかったという背景がある。
特に北部はタイが形成される以前に中国方面からさまざまな民族が南下し、一部は今でも山岳少数民族として山奥で暮らしている。ベトナム戦争のころはこういった少数民族やその村がラオスや中国からの共産主義者たちの拠点になる恐れもあったし、黄金の三角地帯では麻薬の原料であるケシなどの栽培が盛んで、取り締まりに苦慮していたこともある。そのため、純粋なタイ人(タイ族のほか一般的なタイ国籍保有者)は山岳民族を嫌う傾向にあった。
山岳民族の小物はオリエンタル雑貨として世界的にも人気がある
タイ北部最大の都市はチェンマイだ。市街には夜市やバーなどのナイトエンターテインメントもあるが、そこに従事する女性たちにはリス族やアカ族といった、比較的人口の多い山岳民族の出身者も少なくない。この10年くらいで様相は変わったが、それ以前は根強い差別があったという。
チェンマイに長く暮らした経験のある日本人はこう語る。
「バーは女性の善し悪しで客足が変わるので、どの店も頭数だけでも確保したいと考えます。そのときに少数民族の女性を雇ってしまうと、生粋のタイ人女性は嫌がって店を移籍してしまうんです。新規で募集してもタイ人女性が来ないため、店はさらに山岳民族を雇い入れ、残っていたタイ人女性がみんないなくなります」
北部チェンマイのナイトバザール。ここにも山岳民族の物売りが多く見られる
それほど生粋タイ人は山岳民族を嫌っていた。念を押すが、これは10年以上も前の話であり、今のタイの若い人の中には北部出身者でもそういった差別意識はない。今ではバンコクはタイ産コーヒー豆が見直され、それを栽培するのが山岳民族であることから、タイ全土的に少数民族への差別はなくなりつつある。
ナイトクラブにいたリス族の女性。タイ北部は美人の産地とされ、少数民族も色白で中華系の顔立ちをしている
タイ北部の山岳少数民族はこういった差別もあったことと、地理的条件で役所に行くことが困難だったために無国籍になってしまったケースが少なくない。ただ、2008年に国籍法が改正され、過去に遡って父系血統主義によりタイ国籍を取得できなかったか剥奪された人が、改めて国籍を取得することができるようにはなっている。