「ネトウヨ春のBAN祭り」はネット上の革命なのか?
YouTubeは、「表現の自由」、「情報にアクセスする自由」、「機会を得る自由」、「参加する自由」の4つの自由を、YouTubeの「在り方」として定義している。「自由」を標榜するからこそ、その「自由」を守りたいからこそ、その「自由」を利用しようとする「悪意」に対してYouTubeは正しい。
一方、「なんJ民」はどうなのか。本稿において「なんJ民」の行動を、始めは「悪ふざけ」と表現したが、事態が拡大化する中で「悪ふざけ」は「活動」に変わった。
彼らは「祭り」と呼んでいるが、結果的には「革命」と言えるような話でもある。だから「BAN祭り」に対して評論するのなら、通報ひとつでもしろという「なんJ民」の意見にも特に反論はない。
今回の一件で強く感じることは2点ある。一つは「匿名性」のことだ。
筆者はかつて本サイトに「
ウイダーinゼリーの投票キャンペーンで起きた大いなる悪ノリを、主催者は予想できなかったのか」という記事を投稿している。
詳細は記事を読んで頂きたいが、この時に筆者は「なんJ民」の活動を「大いなる悪ノリ」だと評した。当時の「悪ノリ」には、少なからずヘイトや人種差別の意思が含まれていた。
「ウイダーinゼリーの投票キャンペーン」の時の「なんJ民」と、「ネトウヨ春のBAN祭り」の「なんJ民」がどれほど同一性を持っているのか、それは分からない。
しかし、この2件の本当の原動力は「匿名性」にあるのではないか。匿名が悪いと言っているのではない。結局「革命」で何かを変える時の原動力は、名も無き民衆である。世論と言い換えても良い。匿名性の持つ力を、そしてそれは容易に逆転するかも知れないという危機感を、今回の一件は教えてくれた。
そして、もう一つ。
今回の「BAN祭り」が、他のSNSにも波及するか否かには注目したい。
YouTubeの対応が正しかったことは前述の通りであるが、人種差別やヘイトを助長する内容は動画に限らず、他のSNSサイトにも多く見られることだ。
SNSを運営する企業が、「祭り」に乗じる必要はまったくないし、「臭い物に蓋をする」的な過剰な対応は、かえって企業の信頼を失墜させかねない。大事なことは、SNS運営企業が自社のポリシーを明確にし、その実現に向けて正しく行動するか否かである。
今回の「なんJ民」の「祭り」が、日本社会に与える影響は決して小さくないだろう。
<文・安達 夕
@yuu_adachi>