幸か不幸か、先述通り父には自尊心が残っていた。記憶のできない自分を認識できることは、本人にとって辛かったに違いない。
そんな父の状態を分かっていたにも関わらず、未熟だった筆者は、大学卒業後に決まっていた留学が流れ、やりたくもない仕事をやらされているという現状と、2分おきに同じことを聞いてくる父に苛立ちが募り、ある日「同じことを何度も言わせるな。仕事の邪魔だ」と言い放ってしまう。
その時漏らした父の言葉は今でも忘れられない。「俺だって好きでこんなんになったんやないわい」。
跡を継ぐことを頑なに拒んでいた筆者に、初めて「限界がくるまでやっていこう」と決心させた瞬間だった。筆者が大型自動車やクレーンの免許を取ったのも、この頃である。
こうして一通りの失敗を経験し、仕事の流れを把握するようになった頃、新たな問題が勃発する。
今まで頑張ってきてくれていたある職人が、父の後遺症から会社の存続に危機感を抱き、会社を離れていったのだ。
工場に残った不安感は感染し、離職の連鎖が生まれる。筆者もできる限りのことをしたつもりだったが、彼らにも生活や家族があり、不安になる気持ちは十二分に分かっていたため、無理に引き留めることもできず、ただただ自分の不甲斐なさを悔やんだ。
それでも会社は続けざるを得なかった。海外支社を創った際にできた借金もあれば、未だ残ってくれている従業員もいる。皆それぞれが必死だった。
その後、海外支社の閉鎖、円高やリーマンショック、下請けいじめなど、越えなければならない山は続いたが、父が倒れて10年余り、なんとか借金を完済し、残りの職人らが再就職先を得たのを見届けると、父の町工場は30年の歴史に幕を閉じた。
中小零細の町工場には筆者の父のように、会社立ち上げ当初から自分の経験と勘、人脈だけでやってきたワンマン経営者が多い。それゆえ統率力が強く、「ワンマン経営=独裁」と捉えられがちだが、必ずしもワンマン経営が悪いわけではないと筆者は思う。特に、大企業よりも従業員1人ひとりにかかる仕事量や責任の比重が大きい下請け企業には、ワンマンでないと乗り越えられない危機や壁が幾度となく襲ってくる。
しかし、ある程度会社が成長・安定してきたならば、経営方針を徐々にチーム型へと移行させることが、トラブルが起きた際、会社存続の鍵になるのは確かだ。工場閉鎖後、整理していた社長室の棚から、父が覚えたてのパソコンで入力した数十枚に及ぶ「技術マニュアル」が出てきた時には、「ちょっと遅かったな」と思わずにはいられなかった。
あの時、筆者の見た従業員の団結力は、日本のモノづくりの現場がまだまだ捨てたものではないことを教えてくれた。日本の技術を支える中小零細企業。そこで働く経営者と従業員が、互いにより尊重し信頼し合うことで、無駄に消えずに済む工場は増えると、筆者は信じている。
<文・橋本愛喜>
フリーライター。元工場経営者、日本語教師。大型自動車一種免許取得後、トラックで200社以上のモノづくりの現場を訪問。ブルーカラーの労働環境問題、ジェンダー、災害対策、文化差異などを中心に執筆。各メディア出演や全国での講演活動も行う。著書に『
トラックドライバーにも言わせて』(新潮新書) Twitterは
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