最初に迫られた選択は、得意先へ報告するか否かだった。極小町工場の社長が倒れたとなれば、取引先が一気に離れていくことは目に見えている。
話し合いの末、母と筆者、営業らは「社長は長期海外出張中でなかなか連絡が取れない」と、今思えば明らかに無理のある対応をすることで意見を合わせた。
実際、父が倒れる2か月前、得意先を追いかけるように創った念願の海外支社が操業したばかりで、当初は取引先も納得していたが、それまでの取引先とのやり取りも、やはり全て父が担っていたため、しばらくすると「直接話がしたい」という連絡がくるようになる。
次に襲ってきた問題は、受注した仕事の見積りだった。鉄の硬さや金型の形状まで、1つとして同じ条件のない依頼を、父は今まで、経験と各取引先の相場をもって1人で見積っていた。それが全くできなくなり、取引先には「社長が不在で見積もれないからご予算伺えますか」と対応するしかなかった。
それは以後、同業界での無駄な価格競争を生むことになる。
唯一救いだったのは、当時会社にいたヤンチャな従業員35人が、「会社を潰してなるものか」と活気立っていたことだった。未だかつて見たことがない団結力で、今まで以上に真面目に仕事に取り組んでくれた。1人ひとりが自分のできる最短納期を営業に伝え、社長の仕事を見よう見まねで引き継ぐ。父親がいかに信頼されていたかを改めて思い知った瞬間でもある。
父の発症した病気は、くも膜下出血だった。寒いトイレで倒れたものの意識を取り戻し、社長室まで這って戻ると、内線で職人に救急車を呼ぶよう伝え、その後自ら家に電話をしてきた。そのため処置が早まり、幸い体に麻痺は残らず、1か月後には一般病棟に移ることができた。
しかし、そのころから家族にはある不安が募るようになる。父の記憶力が弱いのだ。一過性のものだと信じていたが、結局父には「高次脳機能障害」という後遺症が残った。人により症状は様々だが、父の場合、記憶能力の欠如と、著しい感情の起伏が顕著に表れていた。
高次脳機能の記憶障害は、健忘症と違い、見た目や自尊心は「元の社長」である。人と会話する仕草も健常者と変わらないし、社会復帰にも大変意欲的だった。が、やはり新しい記憶ができない。かかってきた電話に対応できても、切った直後に誰と話していたか忘れてしまう。
それでも今まで散々心配させてきた取引先に、社長の健在ぶりを証明する必要があったため、父を電話に出さないわけにはいかなかった。捻り出した解決策は、電話にテープレコーダーを繋ぎ、後で筆者が内容を把握すること。ところがある日、得意先から電話がきた際、「録音」ではなく「再生」ボタンが押され、過去に取った会話記録が通話中に流れてしまう事態が起きる。これにより、本意ではない噂が広がり、得意先から不信感を抱かれたこともあった。