アイルランド共和国ドネゴール郡。丘陵地に牧草が広がる片田舎に住むここの人びとにとって、最寄りの都市は英国領のデリーだ。マッケイもドネゴールの住人だが、買い物や妻の仕事などでデリーを日常的に訪れる。ドネガンもバンドの練習などのために国境をまたぐ。デリーのパブでは、どちらに住んでいるかなど関係なく、皆がアイリッシュ・エールビールを飲みながら、アイリッシュ・ミュージックを奏で、あるいはその演奏に耳を傾ける。
彼らはポンドとユーロの通貨を使い分け、知らずに通過すれば確実に見落とすような大きめの岩で示されている以外、これといって目印のない国境線を自由にまたいで生活している。デリーの市街地では、英国ナンバーとアイルランドナンバーの車が交互に行き交っているのを目にすることができる。
マッケイの家からデリーの中心地まで、車で約20分。デリーとドネゴールは地方都市と郊外という位置づけになっており、両者が分断された場合、住民のダメージははかり知れない。それがさらには、ようやく近年になって鎮火した紛争の火種を再燃させる可能性もあるからだ。
英領北アイルランドからアイルランド共和国へ入る目印。「ドネゴール郡へようこそ」としか書いていない
何百年もの歴史の積み重ねの上にやっと手にしようとしている和解と平和。その土台はまだ脆く、住民の平和に対する気持ちと努力によってかろうじて保たれている。加えて、EUの「統合」や「仲介」という機能がこの地域の平和構築に果たしてきた役割は、死活的に大きい。この要石がなくなったら、この地域の住民は一体どうなってしまうのだろうか。
英国、アイルランド、EUの誰もが、英国のEU離脱による英・アイルランド国境管理の強化を望まない声明を発表している。しかし全体として、英国はできるだけソフトに離脱しようとしているのに対し、EUは「いいとこ取りは許さない」と厳しく臨む。交渉次第では、仕事に行くにも買い物をするにも長い列に並んでパスポートや税関のチェックが必要になるという可能性がないわけではない。
デリーからドネゴールの家に帰る途中、マッケイは「かつてはここに検問所があって、いつも長い行列ができていたものです」と当時を懐かしむように語りながら国境をまたいだ。英国のEU離脱で、再び国境の壁が高くなるかもしれない。常に英国の都合によって振り回されてきた、アイルランドの歴史を噛み締めるかのような一言だった。
<取材・文・撮影/足立力也(コスタリカ研究者。著書に
『丸腰国家~軍隊を放棄したコスタリカの平和戦略~』など。コスタリカツアー(年1~2回)では企画から通訳、ガイドも務める)>