『ダメおやじ』と高度経済成長期の狂気――古谷三敏インタビュー【あのサラリーマン漫画をもう一度】

映画版のオニババ役は和田アキ子になるはずだった?

――ダメおやじのモデルになる人物っていたんですか? 古谷:最初はいたんですよ。フジオプロのみんなで酒を飲みに行ってお金を払うときに、いつもちょうどトイレに入ったり眠っていたりして払わない人がいた。「あいつって汚いよな」という話になって、じゃあこれからあいつのことを「およばれおじさん」って言おうと赤塚先生が言って(笑)。スタッフの中で重要な人だったから、面と向かっては言えなかったんだけど。その人がもとになって、そういうせこいやつを主人公にしようということになった。 ――そもそも『ダメおやじ』っていうタイトルが強烈ですが、どうやって思いついたんですか? 古谷:タイトルは自然に出ちゃった感じですね。違うタイトルにしていたら、もう少し企業とかの宣伝に使われたんだろうけど、『ダメおやじ』だとねえ。みんなパチンコのコラボですごく稼いでいたので、僕も「なんとか使ってよ」と言ったんだけど、「タイトルがねえ、球が出ない感じがして無理なんですよ」と言われた(笑)。 ――「ダメおやじ」とか「オニババ」は、当時の流行語みたいにもなりましたよね。オニババがとにかく怖かったです。 古谷:大人にとっては、かなりショックなテーマだったかもしれないですね。僕と永井豪さんの『ハレンチ学園』が同時期にPTAでやり玉にあがって、PTAのおばさんたちと対決するという事件があったんだけど、永井さんが逃げたので(笑)、僕だけが10人くらいの女性に「なんで女の人をこれだけ嫌な風に描くんですか!」と言われて。でも、彼女たちもちゃんと読んでないんですよね。だから「よくみてください。確かに主人をいじめたり殴ったりしてるけど、女としてやることはちゃんとやってます、洗濯も掃除もご飯も。ただ給料が少ないから、怒ってるだけなんです」と逆切れっぽく言って黙らせた。 ――アニメ化もされましたが、意外と長くは続いてないんですよね。 古谷:あの頃は、なんでもかんでもちょっと人気が出るとアニメにしてたんだよね。でも、アニメが終わると同時に漫画も終わる、というジレンマもあった。アニメにされてもそんなにお金にもならないし、ヒットしないで消えた漫画もずいぶんあるので、結構怖かったんですよね。それに僕の漫画は紙でやってるからいいけど、あれが動くとなると、自分でも恐ろしいなって。本当に悪い漫画を描いてるな、子供に見せられないなという感覚があったから、2クールやった時点で、もういいですやめましょう、と言ったんです。 ――三波伸介さん主演で映画化もされましたが、先生は深く関わっていたんですか? 古谷:映画はね、すごいモメたっていうかね。監督が野村芳太郎先生ですよ、すごいよね。脚本がジェームス三木さんだし。作る前から松竹に子供たちから電話がたくさんあって、期待はされていたんですけどね……。 ――でも完成した映画は完全に大人向けのサラリーマン映画になっちゃっていたという。 古谷:あれはもうちょっと気楽に作ればよかったのに、さすが野村芳太郎先生という映画になっちゃった。だから思ったほどヒットしなくて、一本で終わった。松竹としてはお金をかけて、いいスタッフで作ったけど。僕はまずキャスティングが良くないと思った。もともとオニババは和田アキ子さんに、ダメおやじはせんだみつおさんにしたいと言ったんだけど(笑)。和田さんにはイメージが悪くなるからという理由で断られたらしい。さもありなんだよね。 ――和田アキ子さん版、見てみたかったです! 古谷:オニババ役になった倍賞美津子さんは、アントニオ猪木さんと結婚しているときだったからいいんじゃないかといわれたけど、どんどん真面目な感じの映画になっていったんだよね。洗濯機の中にダメおやじを入れてグルグル回すシーンをどう描こうかと野村芳太郎先生が悩んでいましたよ。 ――残酷描写は、あくまで夢の中でちょっと出てくるだけなんですよね。

「ダメおやじ」は版を変え、今日でも読み継がれている

(次回に続く) <文/真実一郎> 【古谷三敏】 1936年、旧満州生まれ。漫画家。終戦とともに茨城県に移る。’55年、少女マンガ『みかんの花さく丘』でデビュー。手塚治虫、赤塚不二夫のアシスタントを経て『ダメおやじ』を発表。現在、「漫画アクション」誌上にて『BARレモン・ハート』を連載中
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