『ダメおやじ』と高度経済成長期の狂気――古谷三敏インタビュー【あのサラリーマン漫画をもう一度】

『ダメおやじ』第1巻

――結果的に大成功して、社会現象みたいになりましたよね。 古谷:権威だったはずのおやじが子供にバカにされる、というのがウケたんですよね。子供はそれを見てゾクゾクしたらしくて。特に女の子から「いじめたりない!」という手紙がたくさん来た(笑)。たった5ページで始まった漫画なのに、あれよあれよという間に少年サンデーの人気投票でトップになっちゃった。当時の渡辺静夫編集長が「はっきりいって古谷さん、僕はこの漫画嫌いです」と言われたけど、人気があるからしょうがない、やめるわけにはいかない、ということになった。 ――連載を始めてからどれくらいで人気トップになったんですか? 古谷:すぐですよ。1970年10月に、ひっそりと後ろのほうで目立たない感じで連載が始まったのに、初回から人気がいきなり3位。本当は全8回で年内に終わる予定だったのが、これは凄いということで増ページして。翌年にいろんな人の新連載が次から次へと始まるんだけど、『男どアホウ甲子園』を連載していた水島新司さんとエレベーターで会った時に「古谷さん聞いた?たくさん連載始まったのに、古谷さんと俺のが1位、2位だよ」って言われて。それで「あ、この漫画はウケるな」っていう感触を感じたんですよね。最終的に13ページになって、扉がついたり巻頭カラーになったりした。 ――『ダメおやじ』の初期は、赤塚不二夫先生も手伝ってくれていたという話ですよね。 古谷:そうです。当時僕はフジオプロにいて、赤塚先生のゴーストというかブレーンをやっていたわけです。『おそ松くん』とか『もーれつア太郎』とか『天才バカボン』とか、全部の連載のアイディアを僕が出していたんですよね。先生の横にいて、とりとめもない話をしながら作り上げていく。僕は『ダメおやじ』一本しか連載がないけど、先生は10本くらいあったから、「ダメおやじを早く終わらせて俺の漫画を手伝え」っていうことで、『ダメおやじ』を手伝ってくれたんです。 ――そういうことだったんですね。 古谷:はじめの10本くらいは先生がネームを入れてくれました。絵は僕が描いたけど、話はバーっと作ってくれた。ほかのアシスタントからは「古谷さんの漫画なのに、なんとも思わないのか」と言われたりしたけど、なんたってギャグの王様がネームを入れてくれるんだから、こんなにありがたいことはないと思って(笑)。『ダメおやじ』が最初からウケた原因は、それもあったと思う。先生はページをめくるリズムが飛びぬけて上手かったので。 ――では、頭を釘で打つとか眼球が飛び出るといった残酷な虐待描写も、赤塚先生が考えていたんですか?

「ダメおやじ」(1970)©ファミリー企画

古谷:あれは僕ですね(笑)。どんなに死にそうになっても次の日に元気になっている、これはそういう芝居だと勝手に決めちゃっていた。でも、足を縛って天井から逆さに吊るして目に鍵をかける、というのは赤塚先生が考えた(笑)。そんなこと、普通は思いつかないですよね。
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映画版のオニババ役は和田アキ子になるはずだった?
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