まるで『20世紀少年』、韓国・朴槿恵大統領のスキャンダルに韓国が震撼!

母を失い失意の朴槿恵に接近した男とは

 母親を失った朴槿恵は悲しみに暮れる。そこに現れたのが、崔順実氏の父親である崔太敏(チェ・テミン)氏。母親の想いを伝えに来たと朴槿恵に接近し、心の隙を突くようにいつしか彼女の隣に居座った。この崔太敏氏は1975年4月に大韓救国宣教団を創設し、自身が総裁になり、朴槿恵を名誉総裁に据える。その後、1979年には組織を「セマウム奉仕団」に改称し、各地域は勿論のこと大学や企業内にも支部などを開設し急速に組織を拡大させる。  この「セマウム(新しい心)奉仕団」は表向きには国民の精神教育やボランティア活動などを行っていたが、水産物市場の運営権に食い込むなど各種の利権にも手を出し、その運営基金を大企業の総帥や役員から拠出させた。この「セマウム奉仕団」の「大学総連合会」の会長こそが、崔太敏氏の娘でもあり、朴大統領が機密文書を漏洩させていた崔順実氏である。  ちなみにこの間、崔太敏氏は「永生教」という新興宗教を立ち上げ、教祖にもなっている。  娘に接近する崔太敏氏に不穏な空気を感じた朴正熙大統領は、当時の大統領秘書官であった鮮于連(ソヌ・リョン)を通じ、崔太敏の排除を命じるものの、朴槿恵の懇願もあり曖昧に事を済ませてしまう。  当時KCIA(韓国中央情報局)の部長であった金載圭(キム・ジェギュ)が、この件について徹底した対応を大統領に進言するが受け入れられず、このことが、1979年に金載圭が起こした朴正熙大統領暗殺事件の動機の一つであると語っている。  朴正熙大統領が暗殺されたあと、朴槿恵は暫くの間、表舞台から姿を消す。朴大統領の言葉によれば、この間も崔順実氏は自身を支えてくれたという。1997年にハンナラ党への入党を機に、再び表舞台に現れた朴槿恵は、2004年には国会議員に選出される。その時の秘書室長が崔順実氏の夫である鄭允会(チョン・ユネ)氏。以後、崔氏と鄭氏は朴槿恵の側近として彼女の活動をサポートする。ちなみに崔太敏氏は1994年に亡くなっている。  話は脇道に逸れるが、産経新聞ソウル支局長が、セウォル号事故の際に朴槿恵大統領が7時間に渡り男性と密会をしていたとコラムに書き名誉棄損の罪で逮捕された事件があったが、その相手こそが、崔氏の夫―鄭允会氏である。
次のページ 
朴槿恵と崔氏の40年にもおよぶ闇の密月関係
1
2
3
ハッシュタグ