一方で、小泉氏は3人のなかでも政局感に優れていたという。それは、加藤氏に欠けている面でもあった。
「’72年に田中角栄さんと福田赳夫さんが総理の座をかけて争った“角福戦争”のとき、小泉は福田邸で下足番をしていました。その戦いに敗れて酒を煽っていた福田さんの相伴をしていた。だから、彼は福田さんの無念を忘れず、田中派の流れを汲んだ経世会打倒を掲げ、郵政民営化にまい進しました。加藤にも外交・安保などにおいて、小泉にも勝るとも劣らない強い信念がありました。ただ、超エリートなのに、世渡り下手だったのです。だから、“加藤の乱”は不完全燃焼で終わってしまった」
この「加藤の乱」のくだりは『
YKK秘録』のなかで詳述されている。2000年に、野党が森内閣に対して不信任決議案を提出す動きを見せた際に、当時、宏池会の会長を務めていた加藤氏が野党に同調する動きを見せ、ここに盟友の山崎氏が賛同したのだ。
「各派閥がしのぎを削って自民党が活況を呈した一時代のシンボルが田中角栄さんなら、我々は田中政治=金権政治を否定する立場で当時の政権打倒を企てた時代のあだ花と言えるかもしれません。私は、加藤を総理にさせたかった。ただ、惜しむらくは加藤は正直すぎて、政略家向きではない一面がありました。小渕恵三首相が倒れ、森内閣が誕生してから、加藤は一向に財政健全化に取り組まない森首相を公然と批判しておりました。野党が不信任決議案を提出するのに加藤が同調する動きを見せたことは、すぐにあちこちに漏れていた。森さんと早稲田大学の雄弁会で親しくなって以来、ツーカーの仲の青木幹雄さん(当時、党参院幹事長)に会いに行き、『“加藤政権”の幹事長は、(青木氏や野中広務氏ら事実上の実権を握っていた)橋本派から出してもらっていい』などと言っていたんですから。小沢一郎からも『話が早く漏れすぎている。不信任案が出るまでに切り崩されるぞ』と警告されたほど。結局、その警告通り、加藤派の結束は日を追うごとに崩れていってしまった。山崎派はまとまっていたんですけどね……」
『
YKK秘録』において、この加藤の乱のくだりはハイライトと言える。特に、山崎氏と加藤氏のやり取りは、手に汗握る。
「結局、加藤派は側近の古賀誠国対委員長(当時)も含めて、24人も切り崩されて、残ったのは21人でした。敗北が決定的なのに、私が同調したのは、加藤との友情をまっとうすることを優先したため。山崎派の仲間は『一緒に討ち死にする』と言ってくれたが、負け戦に道連れにするわけにはいきません。それで、加藤に『アンタと俺だけで本会議に出席して、党を割ろう』と言って、ホテルオークラからハイヤーに乗り込んだ。けど、国会議事堂に着いたところで、加藤が弱気になって『やっぱり戻ろう』と。それで加藤の車で引き返している最中に、矢野絢也(元公明党委員長)から電話が来て『早く行け! これでアンタらが欠席すると、2人とも政治生命を失うぞ!』と言う。私はその気になり『行こう!』と、再び国会議事堂に向かうのですが、また加藤の心が折れて、引き返してホテルのソファで横になった。ところが、また加藤が『やっぱり、行こう!』と言い出す。さすがに、三度目の正直というわけにもイカンと突っぱねたところ、加藤は一人で飛び出していったのですが、案の定また引き返してきた……」