そもそも、「YKK」の誕生はイラクによるクウェート侵攻が起きた1990年にまでさかのぼる。
「90年の大晦日に福岡の自宅で紅白歌合戦を見ていたら、加藤から電話があったんです。『政界の同志づくりをしたい』と。それも、経世会(当時の竹下派、現・額賀派)には属さないメンバーでつくりたいと。それで、私が所属する政策科学研究所(当時の中曽根派)の私と、宏池会(当時の宮沢派)の加藤に加えて、清和会(当時の三塚派)から小泉に声をかけようとなった。とういうのも、年齢は違いますが、3人とも72年に初当選した同期なんです。ただ、小泉は少々エキセントリックな人間だから、加藤とは合わないと思った。そのことを加藤に伝えたら、『確認してくる』と。『君はエキセントリックなのか?』と直接、小泉に聞くと『そうだよ。おれはエキセントリックだ』と答えたそうです。加藤は『面白い男だ』と気に入り、仲間になったのです」
こうして誕生した「YKK」の名前の由来について、山崎氏は著書で以下のように述べている。
加藤によるとこのネーミングの由来は、ファスナーの生産者で有名な吉田工業株式会社(現・YKK株式会社)の商標「YKK」から取ったとの由。3人のイニシャルはY・K・Kだし、ファスナーはしっかりした結束を意味している。また、吉田工業は宏池会人脈と縁が深く、応援も長い間受けている、とのことだった。
3人は折に触れては集まり、政策論を戦わせたが、なかでも加藤氏の秀才ぶりは際立っていたという。
「加藤は極め付きの秀才でした。我々が初当選した72年は日中国交正常化が成った年。東大卒業後に外務省に入省し、チャイナロビーとして活躍した後、父・加藤清三元衆院議員の後継者として政界に進出した加藤にとって、日中関係の発展のために尽くすことは宿命でした。しかし、外交・安保に限らず、政策面においても、加藤は官僚よりも詳しかった。本当にバランスを取れた政治家でした。今の政治家は官僚がつくった答弁書をそのまま読むじゃないですか。しかし、加藤や宮沢喜一、渡辺美智雄はズバ抜けて頭がよかったから、全部頭に入っている。絶対そんなものは読まない。必ず、自分の言葉で話すんです」