与党案の孕む問題はさらにある。
そもそも国連は日本に対して人種差別撤廃のための措置を取っていないと勧告を出し続けている。長尾はそれに「打ち返す」必要があることを立法根拠だという。これは正論だ。
というのも、国連が勧告を出す根拠は、日本が「人種差別撤廃条約」ならびに「自由権規約」に批准しているという点にあるからだ。日本政府は、この両条約を批准している以上、国連の勧告に対して応ぜざるをえない。両条約の規定を素直に受け止めると、ヘイトスピーチ規制法の立法は日本にとって不可避の責務であり、国際公約ですらある。
ただ、 「人種差別撤廃条約」と「自由権規約」の要請を根拠に立法するのであれば、両条約が規定する「何が人種差別か?」「何がヘイトスピーチか?」の定義をそのまま援用すれば良い。要件通り設計してこそ、長尾の言う「打ち返し」として機能する。しかし不思議なことに、なぜか与党案は「人種差別撤廃条約」や「自由権規約」の定義を完全に無視し、「本邦外出身者」などという謎の概念を創出し独自にヘイトスピーチを再定義してしまっている。まるで「車輪の再発明」のような愚行だ。これでは論理性のかけらもないといえる。
ヘイトスピーチとは、広義では、人種、民族、国籍、性などの属性を有するマイノリティの集団もしくは個人に対し、その属性を理由とする差別的表現であり、その中核にある本質的な部分は、マイノリティに対する『差別、敵意又は暴力の煽動』(自由権規約二〇条)、『差別のあらゆる煽動』(人種差別撤廃条約四条本文)であり、表現による暴力、攻撃、迫害である。
これは、名著の誉れ高い『
ヘイトスピーチとは何か』で師岡康子(弁護士)が提示する「ヘイトスピーチ」の定義だ。実に鮮やかで解りやすく誤解の余地がない。用いられる語句のほとんど全ては「人種差別撤廃条約」と「自由権規約」で用いられているものばかりで、独自解釈はほぼ含まれていない。与党案と違い師岡は「車輪の再発明」の愚を犯していないのだ。これでこそ、要件通りの設計と言える。
わざわざ自分で謎の概念を創出し、「人種差別撤廃条約」の要請にも「自由権規約」の要請にも答えていない与党案は、残念ながら長尾の言う「打ち返し」としてすら機能しないことは明らかだ。照準も不明確で実効性も乏しい法律をいくら整備したとて、国連からの勧告は止むことは無いだろう。
しかし、絶望するのはまだ早い。
与党側がこの法案を衆院ではなく先に参院に上程したのは、野党案が参院法務委員会で審議されていることに配慮してのことだ。しかも法務委員会における審議では、ヘイトスピーチ規制法案の審議を、懸案である司法改革関連法案の審議より優先して実施することでも与野党は合意している。まだ歩み寄りの余地は十分ある。
今後の国会議論で、愚劣な現状の与党案に磨きがかけられ、まともな法整備が進むことを期待しよう。
<文/菅野完(Twitter ID:
@noiehoie)>