この様な経緯で完成した「佐藤新興生活館」でしたが、太平洋戦争が始まると帝国海軍により徴用、終戦後はGHQに接収され陸軍婦人部隊の宿舎として用いられ、彼らからは「Hilltop」の愛称で呼ばれることになります。そして、1954年のGHQによる接収解除のタイミングで佐藤家から建物を借り入れて、ホテルを開業したのが、創業者の吉田俊男でした。
吉田は東京商大(現一橋大学)卒業後、旭硝子に入社して渉外課長などを務めていたやり手のビジネスマンでしたが、父親は当時の国語の教科書等を編纂していた、高名な国文学者吉田弥平、義兄は俳人水原秋桜子という文学系の一家の出身でもありました。
この辺りの繋がりも、山の上ホテルが「文人の宿」となった要因にもなったようですが、吉田自身も「文藝春秋」に載せる広告コピー「幾分古びた、くすんだ、ホテルです。静けさと、味のお求めに応じる文化人のホテルです」等を考えたりしているので、言葉に親しみがあったのでしょうね。
ホテル開業時に愛称「Hilltop」をそのまま「丘の上ホテル」とせずに「山の上ホテル」としたのも吉田です。東京のど真ん中の高台にあるホテルに、あえて「山の上」という風情をつけた辺りもこだわりを感じさせます。
そんな吉田がホテル経営にあたり、重視したのが冒頭で三島由紀夫が「まだ少し素人つぽい処が実にいい」と述べているサービスでした。それはただ、コストをかけている、洗練されている、といった誰にでも分かりやすいものではなく、言わばホテルと客で一つの価値観を共有して、それに対して誠実に尽くす、といったものだったようです。
例えば、山口瞳は「ホテルでは山の上ホテルが一番だ。一番というのは一番上等だという意味ではない。一番好きだと言ったほうがいいかもしれない。その『好き』の内容は『気持が安らぐ』もしくは『自分の家に帰ってきたようだ』ということになろうか。」と書いています。
ただ、吉田がそれを独りよがりなものにしないための努力も欠かさなかったであろうことは、従業員教育として、給与が2万円の時代に80万円もの旅費を持たせてヨーロッパ各地のホテル視察に派遣していることからも伺えます。
その際の吉田の指示「その土地で最高級のホテルに泊まれ。その土地の、魚河岸、問屋、野菜市場をはじめすべてその土地固有の商店を見てくること。それに一日一度は必ず一番安いメシ屋でその土地の運ちゃんや労働者の食べるものを食べろ」もホテルを経営する上で実に本質的な視点といえます。