skipinof / PIXTA(ピクスタ)
―― 佐高さんは著書の中で司馬遼太郎を批判しようとした時に出版社から止められたと書かれていますが、その時のことについて詳しく教えてください。
佐高信(以下、佐高) 『噂の真相』に司馬遼太郎の批判記事を書いていて、それを他の出版社から出す時評集に入れようということになったんです。しかし、編集者に司馬遼太郎批判の記事だけ外してくれと言われた。そういうことが一度や二度ではなく何度もありました。対立すると言われている朝日新聞から産経新聞までみんな司馬遼太郎のことを持ち上げている状況でしたから。司馬批判をしている『
司馬遼太郎と藤沢周平』という本は一九九九年に光文社から出したんですが、光文社は昔、有名になる前の司馬遼太郎の作品を蹴飛ばしたらしい。それで司馬遼太郎は光文社から作品を出さないということになっていたようです。だから光文社は批判本が出せた(笑)。司馬遼太郎と利害関係のあるほとんどのメディアは司馬批判をできなかったんです。
この本の元になる原稿を光文社の『宝石』に書いたんですが、小松左京さんから突然自宅に電話がかかってきました。「
佐高さん、よく司馬批判を書いたね」と。それで改めて、ああ、司馬遼太郎というのはメディア業界全体のタブーなんだなと思いましたね。
司馬遼太郎と藤沢周平の最大の違いは何かと言うと、女性の読者が司馬にはほとんどいないということですね。藤沢ファンは私の周りだと落合恵子さんとか宮部みゆきさんとか吉永みち子さんとかがいます。司馬作品は股間に何かぶら下げている人の喜ぶ作品なんでしょう。
司馬は差別や格差に鈍感なんです。女の人っていうのは自分たちが社会から差別されているから、そういう目線に敏感ですよね。
司馬の小説には体育会系の部室みたいな空気がある。読む栄養ドリンクみたいなものかもしれません。本当に健康になったわけじゃないんですけど、一瞬、元気になった気がするだけということですね。もう一つ言うと
司馬の目線は上から見た統治者の目線です。一方、藤沢は下から目線で社会党や共産党の政治家が好みますね。司馬は
与党で良くて体制内革新と言ったところ。
時代小説の本流は長谷川伸や子母澤寛が描くような敗者の歴史です。ところが司馬遼太郎は勝者の歴史を描いている。時代小説のなかでは「外れ」にいるんです。敗者のエネルギーや恨み、復讐の念を描くことはない。だから、司馬は悪人を描かない。
―― 悪人を描かなかったのか、描けなかったのかどっちだったんでしょう?
佐高 それは描けなかったんでしょう。
司馬には屈折がない。お坊ちゃん的な雰囲気を感じる。世の中は善意で何とかなると思っている。『
アーロン収容所』の会田雄次さんはその点、司馬を厳しく批判していました。善悪を超えたものが世の中にはあるんだと。会田さんはアーロン収容所で経験した辛い歴史をきちんと書きましたから。司馬が戦争で辛い思いをしなかったとは言いませんが、そうした暗い部分をきちんと見ようとはしなかったんでしょうね。司馬は最後までノモンハンを書かなかった。
城山三郎さんと吉村昭さんは司馬にすごく批判的でした。城山さんは公には言わなかったけど、「
司馬遼太郎の目は神の目だ」と痛烈な批判をしていました。下界でうごめく人間の目線ではないと。吉村昭さんは司馬遼太郎賞を断りましたね。「司馬遼太郎の作品を読んでないから」という理由だと伝わっていますが、すごいことですよ。城山、藤沢、司馬は歳が近くて、みんな戦争に翻弄されたけど、
城山さんは兵隊の立場に立って小説を書いている。ところが、司馬は神の目線というか、ビルの上から見た目線ですね。そこには下界の人のため息やうめき声が届くことはない。だから、敗者や女性を書けない。